ジェットガール

ときどき書きます

日没

 窓から橙の強い光が差し込んで、気怠くソファに横たわる伊織の背中を濡らしている。ぼくはその横顔を眺めたまま押し黙って、彼女がテレビ番組のナレーションに小さく悪態をつくのを聞いていた。事務所の皆はそれぞれの仕事のために出払ってしまっていて、ぼくたちだけがただ、こうして目的もなく時間をつぶしているのだった。
 テレビから発される判然としない喋り声と、窓の外から感じられる街の雰囲気のほかに音もない。今やぼくたち二人にできることは何もなかった。ただ彼女との契約期間が切れる時間を待つほかには。

 前回のミーティングでいつもの喫茶店のテーブルに向かい合って座ったときには、伊織はすでに察していたのだと思う。すでに以前から何度も、はっきりとした形ではないにしろ、それは示唆されていたことだった。つまり、決まった期日までにこのランクを越えることができなかった場合には、ぼくたちのタッグは解消となり、彼女は最早アイドルでなくなってしまうということ。そのことをぼくがたどたどしく説明するのを観察するように、伊織はただ黙って、聞いていた。
「その日をもってぼくが君をプロデュースすることはなくなる訳だが、きみは依然アイドル候補生として活動を続けることができる。ふたたび、他のプロデューサーが現れるのを待って」
 見つめるばかりで何ひとつ口を挟もうともしない伊織の様子を気にしすぎていたのか、ぼくの説明は同じ台詞が繰り返されたり話が前後したりと、まったく要領を得なかったのだが、なんとか話の終わりにこぎつけて一息つくと、伊織はようやく口を開き、
「そう、……じゃあその日に私は事務所を辞めることにする」
 迷う様子も見せずあっさりと言って、気のなさそうに紅茶を一口すすった。カップをソーサーに置く。テーブルにかかる日射しが、暗い店内にあって彼女の姿を幽かに浮かびあがらせている。ぼくは返事も忘れていて、ただ、この場面に覚えがあると思った。

 一年前の同じ季節のこと、ふたりが出会ってからの最初のミーティングで初めて、この喫茶店を使った。事務所で軽い顔合わせをしたのち、どこか落ちついたところで大まかな計画を練ろう、と決め、午後の眩しい街なかを特にあてもなく歩いて適見つけた店だった。初対面の少女とふたり並んで歩く、ともすればぎこちない沈黙となってしまいそうな時間を、伊織についてのさまざまな、個人的な質問でぼくはなんとか埋めていった。
 当時は期待の新人プロデューサーという触れ込みだったぼくは、ビジュアルなら折り紙付き、花開くまではあと一歩と目されていた伊織を、プロデューサーというキャリアのその最初のパートナーとして選んだ。そうして運命を共にすることが決まった彼女と喫茶店のテーブルを挟んで向かいあったとき、ぼくは、未来の見えないことの不安と、そしてそれ以上に強く立ちあがってくる根拠のない輝かしい想像にスーツを膨らまし、半ば自分にいい聞かせるかのように彼女に語っていた。
「よろしく、水瀬くん。ぼくはきっときみをトップアイドルにしてみせるよ」
「なにそれ。当然じゃない」
 伊織は呆れたように肩をすくめてそう言った。なにしろこれからミーティングを始めようというときに口を開いて言った台詞がそんなざまだったので、ぼくは面喰らう暇もなく、むしろへんに楽しい気持ちになってしまって、何を言うこともできずにいた。そんなぼくを伊織は一瞥すると、あとは興味なげに紅茶を飲んでいた。カップを置いた彼女がぼそりと、まあそんなに期待はしていなかったけれど、と言い、それが紅茶を評したものなのかぼくを言ったものなのかは分からないままに、ぼくは苦笑いをした。そういう風にしてぼくたちの日々ははじまった。
 しかしそれからの日々は易しくはなかった。先の心強い彼女の言葉にも関わらず、ぼくたちの事業は難航した。ひと月が過ぎ、三ヶ月が経っても、表舞台に彼女が姿を現す機会はほとんどなく、ぼくたちは先の見えないまま地道な活動を続けざるを得なかった。彼女の前では決して顔に出さないようにしていたが、内心の焦りはひどく、家から事務所までの道程を往復するぼくの足どりは次第に重くなっていった。日差しがじりじりと肌を苛む真夏の街路に彼女を立たせて販促活動をさせるたびにひどい罪悪感がつきまとった。いつも通りほとんどなんの成果もない時間が終わり、次の現場に移動するため彼女をクーラーの効いた車の後部座席に乗せ、スポーツドリンクを手渡しながら、今日はとくに暑いし大変だったろう、お疲れさま、と声をかけると、彼女は額に汗の玉をふつふつと浮かべて、そうね、でもこんなことをしているのも面白いわ、などと言って笑うのだった。そんなことを言って、きみは何者にもなれないまま終わってしまうのかもしれないんだぞ、そうは言えずに、ぼくは黙ってハンドルを握った。バックミラーに目をやると伊織は、拭いても拭いても湧いてくる汗をタオルに染み込ませながら、道路沿いのつまらない景色を眺めていた。

 夕方になって風が吹いたらしく、窓から吹き込む風に事務所のブラインドがかたかたと音を立てて、ぼくの数秒間の回想を破った。顔がこわばっている。鏡を見なくても、知らず知らずのうちに苦しげな顔をしていたのだろうとわかる。そんなぼくをひとり措いて、伊織は平然とした顔をしていて、そこに何かのわだかまりがあるようにも見えない。その様子は超然としているとすら言ってよかった。
 しかし明日にはもうぼくらは、他人同士になってしまうのだ。伊織はただの高校生に、ぼくは(おそらくは)他のアイドルのプロデューサーになり、互いの時間を分かちあうこともなく、ただただ離れ離れになっていく。
 伊織がソファを立ち、事務机を漁って難なくどこかの鍵を見つけ出す。あ、と声をかける間もなく伊織はすたすたと事務所のドアを開け、外へと出てしまう。後を追うと、彼女は階段を上ったところにある屋上へのドアを開けているところだった。
 ぼくも事務所を後にし、少し遅れて屋上へ出ると、わずかに風が吹いていた。
「屋上は一応、勝手に出ちゃいけないことになってるんだが」
 ぼくの訝しげな視線に、伊織は弁解する風でもなく言う。
「じゃああんたが許可したってことにしなさい。少しくらいいいでしょ、これが最後なんだから」
 さいご、という伊織の言葉にぼくの身体はぼくが信じ込んでいたよりも過敏に反応した。仕方ないな、と答えようとしたが、声が擦れて、うまく言葉にならなかった。
「引退……のこと、気にしてるの」
 その問いかけに、ぼくは答えもない。
「そう、じゃあいいわ」
 そう言って街の眺めに目をやる。その横に並び、同じ景色を見つめると、今日の夕陽の名残りの中、街の灯りがあちこちに顔を見せてはじめている。
 伊織、とぼくは声をかけた。
「お疲れさま」
「あんたこそ」
「きみをアイドルとしてもっと輝かせることができなくて、すまなかった」
「謝るようなことじゃないわよ」
 伊織は静かに答える。
「プロデュースしている間に、いろいろなことがあった。伊織のことはずっと忘れられないだろう」
 そう言ったとき、伊織は突然ぼくの方に体を向け、
「あら、私はあんたのこと、忘れちゃうと思うわ……」
 それきり口をつぐみ、不思議な表情でぼくのことを見つめていた。
「どうしてだ、伊織、ぼくのプロデュースしていた期間はそんなに辛かったのか。もう思い出したくもないくらい」
「辛かっただなんて思ってないわよ。面白かったもの」
 伊織はぼくをあやすように言う。それでもぼくは訊かずにいられない。
「じゃあ、なぜ」
「ただ忘れるから、忘れるのよ。あんたはこれから何度となく、代わる代わるアイドルをプロデュースして、うまくいったり、うまくいかなかったりするその度に、私のことを思い出すんでしょう」
「そうかもしれない」苦い記憶として。
「同じことの繰り返しよね」
「それが大人ってことだよ」
「けど、私はそうじゃない。もうアイドル活動とは無縁の生活を私はするわ。ただの、いち高校生としての残りの期間。それから、高校を卒業してからのことだって、何ひとつとして同じ季節の繰り返しにはならないもの」
 私ってまだ大人じゃないんだから、と言って伊織は笑った。

 どこからか、夕方の、帰宅をうながす音楽が流れてきた。これでぼくらの契約は終了となった。『家路』もしくは『新世界より』と名付けられたその曲のメロディを伊織が口ずさむ。
「……さて、そろそろ帰る時間かしら」
 まるで友達の家を去るみたいに気軽な声で、伊織が言う。また、いつものように明日がやってくるみたいに。
「送るよ」
「あら、いい心がけね」

 伊織を送りながら、ぼくは彼女のことを思う。ぼくは彼女にまた会えるだろうか? 会えるだろう。何度も何度も繰り返す、プロデュースのうちにぼくは彼女にまた出会えると思う。そう伝えると伊織は頷いて、そうしなさいと言った。
 別れ際、最後にぼくは尋ねてみる。
「ぼくは今度こそうまくできるだろうか、なあ、伊織」
「さあ? きっとうまくいくわ、なんて言わないわよ、私は」

夜を走る光

 萩原雪歩は仕事を終えて帰り支度を整えても、すぐに帰るわけではないようだった。バッグを肩に掛けいつでも外に出られる格好をしているのに、じっと立ったままでいる。事務所の共用の本棚に誰でも読めるように置かれているファッション雑誌をしばらくの間興味なげにめくっていたが、それにも飽きてしまったようで、いまは窓の外を静かに眺めていた。近ごろ急に早くなった日没に往来は橙へと色を変え、街の灯りがぽつりぽつりと顔を出しはじめている。そうしている間、雪歩の視線がふいに泳ぎ、事務所のある一方を見つめていることがあった。
 視線の先では今日のダンスレッスンを終えた菊地真が、同じユニットの天海春香と今度の新曲について言葉を交わしていた。くつろいだ様子だが、しかし真剣な表情で、二人はいくつかの点について確認をとっていく。春香の質問に、ときおり真が身振りを交えて答えている。やがて互いがそれに満足すると、自然と沈黙が降りて、真が伸びをしたのを合図に、その日はお開きとなった。お疲れさま、と互いに声をかけ合うと、真はくるりと踵を返して、自分の学校指定の鞄を拾い上げる。それから事務所を見渡すと、一箇所に目を留めて、そちらへと歩いていった。

「雪歩、もう帰るところ?」
 真の声に弾かれたように、雪歩はそれまで不自然にこわばらせていた体を翻して、笑顔を見せた。
「あっ、真ちゃん。そうだよ」
「じゃあさ、ちょっと行きたいところがあるんだけど……」
「また『かわいい店』?」
 わざとうんざりしたような仕種で雪歩が言うと、真は苦笑いをする。
「やっぱりボクひとりじゃ入りにくくてさ……」
「うん、じゃあ一緒に行く?」
 雪歩は笑って、返事も待たずにすたすたと真の前を歩いてゆく。その背中を見ながら小さく肩をすくめると、真は事務所を出ていく雪歩のあとにつづいた。閉じかけたドアを片手で押さえると振り返って、
「お先に失礼します」
 事務所の皆に向かって真が挨拶をし、雪歩の後を追う。それから一緒に階段を下りてゆく二人の靴の音を覆い隠すように、ドアがゆっくりと閉まっていった。

 その二人を見送るようにして、如月千早はソファに腰かけて眺めていた。すこし早めに仕事を終えた千早は、春香と一緒に帰る約束があったため楽譜に目を通しながら待っていたのだが、雪歩の様子に気がついてからは、楽譜を膝の上に置いたまま、ずっと思案するような表情で二人のことを見つめていた。ドアが閉まる音に気づかされたようにしてふたたび楽譜を手に取ると、いつも持ち歩いている鞄に加えて一日分の着替えが詰まった大きなバッグが隣に置かれているのが千早の目に留まった。今日はその荷物を持って、春香の家に泊めてもらうことになっているのだ。千早は最後に人の家に泊まったときのことが思い出せないくらい昔のことで、前の晩の準備のときに荷物の加減が分からなかったことを思い出して、不格好に膨らんだバッグを少しきまり悪く思った。

 新曲のダンスについて真と細かい詰めを終えた春香は、千早のもとに駆けよった。千早は事務所の端のソファに、荷物とともに少し居心地悪そうにして座って待っていた。
 今日のことは春香の方から誘ったことだった。以前、千早が何げない会話に、オフの日にはいつも一人で部屋にいるという話をしたことがあった。そのとき春香は大げさに驚いてみせて、寂しくないの、と訊いたが、千早はふしぎそうに首を傾げただけだった。
「別に……」
「そうかなあ。あ、今度オフの予定が合ったら、私の家に遊びに来ない? お菓子作ったりしよう! たのしいよ!」
 一方的にそう言って強引にうんと言わせた春香は、それから事務所に掛かっている全員の予定の書かれたホワイトボードの前を通りかかるたび、マーカーで乱雑に書かれた予定たちをじっとにらんでは、二人の予定の合間を探していた。ようやく都合のいい日が見つかったのは二人が話をしてからずいぶん経ってからで、その頃には千早はその口約束をすっかり忘れていたものの、春香の再びの誘いにもけっして嫌そうな顔はしなかった。

「じゃあ、私たちも行こっか。待たせちゃってごめんね」
 支度を終えた春香に頷くと、千早は楽譜をしまって立ち上がった。駅までの道を歩いているあいだ、千早は、夕陽のなか無表情に立っていたのに、俄に元気になった雪歩や、真面目な表情を一転させ楽しそうに雪歩の後ろを歩いていた真のことを不思議に思って、じっと考え込んでいた。
 春香はそれを見ていて、また千早ちゃんの考え癖がはじまった、と思って、何も言わずに隣を歩いている。春香がほかの友達といる時にはいつも誰かが喋っているのが普通だし、自分でも人並みにおしゃべり好きだと思っているけれど、千早のこういう様子を見るのは嫌いではないと思った。
 帰路につく人でごった返す夕刻すぎの駅の構内を、春香と千早は通りぬけていく。すぐに電車が到着して、ふたりは人の列に連なって乗りこみ、吊革につかまった。電車が動きだすとき、家に着くまで少しかかるよ、と春香が言った。
 ベルの音とともに電車が駅を発つと、窓の中をビル街が流れ出した。夕暮れの淡い光に建物は境界も色彩もなくし、ひとつながりの街の印象となって、千早の目の前を通りすぎる。外の風景が移り変わり夜の暗さが染みわたっていくうちに乗客たちも入れ替わりを繰り返し、だんだんとその数を減らしていく。電車が止まりドアが開くたびに、寒々しい駅の空気が車内へと流れ込んだ。春香が身を縮めて、少し大げさに身を抱えて、うう寒い、とつぶやくと、千早もそれに応えるように、ただ、寒いわ、と独り言を言った。
 電車に揺られながらふたり並んで立って、仕事や学校のこと、事務所にいる他の人たちのことを、くるくると話題を変えながら、春香は喋った。千早は聞き手に回る一方で、春香が何かを尋ねるのでもなければあまり口を開かない。けれどそれは千早が春香の話に関心がないということではなく、ただその関心を上手に口にする方法が分からなくて戸惑っているようで、困惑する千早をよそにむしろ春香は、自分のために心を砕く千早の様子を見て嬉しく思っていた。
 千早の視線はいつも鋭い。そのせいで冷たい印象を与えることも多いけど、決して心の底まで冷たい人間ではないことを春香は知っている。ソロユニットとして活動しているためか事務所でも一人でいることの多い千早は心を開いた様子をあまり見せないが、いつかその芯の強いまなざしで見つめるものが、一片でも分かるようになればいい。そう思って、春香はまた口を開く。

 大きな駅を過ぎると乗客もまばらになる。大勢の人が電車を降りたことで広々と空いた座席に並んで座ると、ようやく今日のレッスンの疲れが出てきたのか、それまで元気に喋っていた春香の話すペースがのろくなり、しだいに、二人の間に無言の時間が挟まるようになっていった。うとうととしながらも、それでも話しかけてくる春香が眠れるようにと、千早は春香がささやくように発した質問には答えず、口を閉ざした。
 列車はすでに都会を遠く離れ、今や車内に数えるほどしかいない乗客たちはそれぞれが長い座席を占有するかたちになっている。肩を寄せあって眠る恋人たちや、気怠げに本を読んでいる青年、携帯電話を手にしたサラリーマンといった見ず知らずの人たちとこの列車に偶然乗り合わせ、自分たちと彼らが同じ長い距離を一緒に運ばれてきたことを思うと、千早はこのほとんど活動を停止した車内に妙な連帯感のようなものを感じる。春香はすうすうと寝息を立てながら千早に体をあずけて、ぴったりと肩がくっついているので、まるであの恋人たちのようだと思って、向かいのガラスに映る自分たちの姿を千早は見ていた。
 そうして、線路の音を聞きながら今日のことを思い返していたとき、ふと、千早は、あの夕方の雪歩と真のことがすっと胸に落ちてきたように感じた。すぐにその不思議な感触は蒸発したみたいに消えてしまい、掴みようがなくなってしまったけれど、その場面が隠し持っていた秘密に自分も触れることができるのかもしれないという気持ちは、不思議とその後になってもずっと残っていた。
 鉄橋にさしかかり、列車は河の上を越える。自分を包み込む音が変わったのに春香が少しだけ気がついて、体をもぞもぞと動かしたが、またすぐに規則的な寝息を立てはじめた。それを見つめながら千早は、春香が目を覚ましたら、今日の夕方の二人のことを話してみようと思った。隣で眠る少女がきっとその秘密をあかし、自分の世界を開いてくれる。そう思ってみると、その勝手な考えが、千早を安心させてくれるような気がした。

 じきに自身もやわらかな眠気を感じ、千早が目蓋を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。眠りにつく前の、夢とも空想ともつかない世界の中にいて、千早は昔のことを思い出していた。
 まだアイドルとして駆け出しだったころ、地方での小さな興行を終えた千早は後片付けののち、数人のスタッフたちと一緒に、事務所に戻るため夜道を帰っていた。大人たちが歓談する一方、後について歩く千早はひとり無言のまま、失敗とも成功ともつかない微妙な手ごたえを感じながら、夜の寒さに身を縮めていた。街灯もろくになく、見渡しても周りは闇に沈んだ畑ばかりの道で地面を見つめていたとき、遠くから、警笛の音が聞こえてきた。顔をあげると、視界の中ほどをゆっくりと列車の光が横切っていた。線路のがたがたという音をともないながら、多くはない乗客を運ぶ列車の窓からこぼれる光が夜に浮かびあがり、おそらくこれから家に帰るのであろう人々の座る車中が、千早の目にはそのとき、やけに温かげに映ったのだった。そのことをなぜだか強く、憶えていた。
 千早はぼんやりとした意識の中、その時のことを思い出していて、自分が眺めていたあの列車に、いま、こうして春香と乗っているのだと思った。あの夜の自分がひとり、この流れ去る暗い景色のどこかに立っていて、自分たちのことを見つめている。その自分がじっと見つめる瞳の中に浮かぶ孤独の色が、けれど今の千早にとっては寂しくはないのだった。
 電車の明かりは二人を包んで、夜を切りとりながら走ってゆく。その光をいつまでも見守りながら、やがて千早は本当の夢に落ちていった。

ミーツ・アイドル

 宴も半ばの居酒屋の座敷は雑然とした人の集まりで、多くが話に興じるなか、時おり立ちあがって別の相手を求めうろつく者もある。今日は中学校の同窓会で、つまり数年前の同じころを同じ教室で過ごしたぼくたちがぞろぞろと一つの店に顔を出し、覚えたての酒を飲みながら旧交を温めようというのだった。何人かの旧友とひと通りの挨拶をすませたぼくは、あちこちを飛び交う同年代たちの声に包まれながら視線を彷徨わせるうちに、談笑する一団の中にひとりの姿をみとめた。敬介だ。彼はぼくの視線に気がつき、仲間に何ごとか言うと、立ちあがってこちらに歩みよった。
 よう、と言って近づいてきた敬介は人懐っこい笑みを見せて隣に腰を下ろし、ぼくたちは互いに再会を喜びあった。高校進学を機に別々の学校に行くようになってから数年、街なかで偶然出会うことも時々あったとはいえ、前に会ったのはもう一年以上も前のことだ。敬介は小綺麗な服に身を包み、髪も少し染めているようで、まるで大学生みたいになった、とぼくが言うと、彼の方では、お前は変わりないな、と笑うのだった。
 そんな風にぼくたちが同窓会にふさわしい会話を続けていると、入り口のほうがすこし賑やかになった。ぼくたちのいる所からは女の子たちが立ちあがって誰か遅れてやってきた者を囲んでいることが窺えるのみで、ぼくも敬介も気にするともなく眺めていたが、やがて人の輪がゆるやかにほどけると、そのちょっとした騒ぎの中心にいた人物が姿をあらわした。
 顔を見せたのは女の子だった。肩に届かないくらいの長さの黒髪から中性的な顔つきが覗き、すらっとしたジーンズと二の腕を見せる服がシャープな四肢を強調している。身のこなし、表情からも、ぼくらのような人間とは違う存在感をそなえていることがすぐに知れた。座敷の隅にいたグループから声があがり、また沈黙して見守るものもいる。囲んでいた子らに愛想を振りまきながら、彼女は取り巻きたちの手をはなれ、一通りあたりを見回すとぼくに向かって微笑んで、口を開いた。ように見えたが、それはぼくの思い込みで、というのも、彼女が呼んだのはぼくではなく隣りにいた敬介の方だったからだ。
 彼女がこちらに近づいてきて、少しだけ緊張した面持ちの敬介が腰をあげ、二歩の距離で離れて立つ。そして続く、久しぶりに会ったのであろう二人の当たり障りのない会話を、ぼくは背中でぼんやりと聞いていた。
 そうしてぼくは突然、彼女の名前を思いだした。菊地だ——菊地真。敬介と、菊地なのだった。中学に入ってすぐのころ、最初のクラスで近くの席になった敬介と自然に行動を共にするようになったぼくは、時おり敬介と話している菊地の姿を見かけるようになった。敬介が彼女のことを幼なじみだと言ってぼくに紹介した当時、ぼくたちの背丈はそれほど変わらず、敬介も、菊地も、互いを同性の友達のように考えているようだった。
 けれどぼくは違った。髪も今よりずっと短く、休み時間には男子たちと一緒に球技をする彼女のことを男子同然に扱うクラスメイトもいたけれど、彼らに混ざるわけでもないぼくにとっては、あくまで、菊地はひとりの女の子だった。出会って以来ぼくはすぐに菊地の影を追うようになっていた。教室移動に廊下を歩く彼女の横顔や、グラウンドに揺れるショートヘアを見つめた。
 不意に背後の会話が途切れた。肩を叩かれ振り向くと、敬介がぼくを見おろしている。彼はぼくの名前を菊地に告げ、こいつのこと覚えてるか、と言った。彼女と目があう。微笑むようにぼくを見た彼女は曖昧に、うん、と言った。ぼくは何も言えずにいて、立ちあがる機会を逸した。
 ある日のことを思いだす。敬介と菊地が教室で一緒に弁当を食べていたときのことだ。彼らの様子を眺めていた男子がふたりを冷やかすようなことを言うと、別のひとりがそれに乗じた。そのこと自体に彼らは罪悪感を感じていなかったし、何も言わなかったぼくも彼らに荷担している側だったが、そうやって声にされてみると、教室の雰囲気が少しだけ、しかし確実に、ぎこちない空気を帯びたのだった。今まで何事もなかったはずのその光景が急に馴染みのないものに思えてくるのを、ふざけていた当の男子たちですら感じていた。結局その出来事はそこで立ち消えになったけれど、その日を境にふたりは疎遠になっていき、そしてそれきり、ぼくと菊地との接点は失われた。
 別々の高校に行くようになってから、クラスメイトの会話に、菊地がアイドルとしてデビューしたことを知った。同じ中学だった者には時々、まだ駆け出しの彼女のことを冗談めかして揶揄してみたり、彼女の載っている雑誌を教室に持ってきたりする者があったが、その度にぼくは知らないふりをした。全国区となった菊地に、現実感というものがなかったのだ。ぼくはあえて音楽番組も見ないようになった。
 今やそこそこの人気を集めているらしい菊地は仕事の合間をつかってなんとか顔を出していたようで、人を待たせているからと言って、仲のよかった女子たちとの別れを惜しみながら帰っていった。彼女の姿が消えると、ひときわ残念そうな声が女子たちの間からあがる。ふたたび隣に座った敬介はぼくと顔を合わせると微妙に笑って、それ以上はなにも言わなかった。
 同窓会から少しして、テレビの番組表に菊地の名前を発見した。ぼくは見て見ぬふりをやめて、彼女を映す画面に向きあってみる。テレビの中では、ステージに立つ菊地の姿がキラキラと輝いている。なんのことはない、そこにいる彼女は、ぼくたちの知っている日常をすべて振り払った、ひとりのアイドルとしての菊地真だった。知らず知らずのうちに記憶から追いやっていた彼女の姿を目の当たりにし、あのときの憧れをまざまざと思いおこさせる様子に、彼女がいま仕事で付きあう人々は彼女の魅力を存分に引き出しているのだろうと満足して、ぼくはテレビの電源を切った。