ジェットガール

ときどき書きます

おなじみの夜

「それではさやかの失恋を記念しまして、乾杯! ほら、さやかも、マミさんも」
 佐倉さんが高らかにそう告げ、手にしたジョッキを掲げる。隣に座った美樹さんにほらほらと促し、美樹さんはというと仕方なくつき合ってやるという風である。一瞬目が合ったとき困ったように微笑んだ彼女は、青みがかかった髪を肩まで伸ばして、以前会ったときよりもさらに大人びて見えた。
「大きな声出さないでよね。恥ずかしいから」
 そう言いながらも美樹さんはグラスを持った手を伸べて、私もそれに合わせ、三人の乾杯にカチリと音がなる。
 日も暮れてようやく一週間が終わり賑わいだした店のお座敷で、先ほどの佐倉さんのかけ声が集めた好奇の目を体に感じて、私はひとり固まっていた。周囲の視線は私の向かいにいるふたりの視界には入らないから、平気な顔でメニュー片手に話を続けている。
「何言ってんださやか、いつもの事じゃないか」
「いつもの事ってどういうことよ」
「さやかの失恋に乾杯し続けて、もう何度目かも覚えてない」
「こら、そんなに多くはないわよ!」
 そう怒ったふりをしてみせて、美樹さんがグラスを傾ける。そうしているうちに周囲の視線も散り、私も息を一つ吐いて、喉に梅酒を流しこんだ。
 佐倉さんが言っているのはつまり、美樹さんが失恋をするたびに三人集まって飲んだり食べたりをする、この会のことだ。彼女の傷心を聞きつけるや佐倉さんは私にメールを送ってよこし、知らないうちに話を進めてくれるので、気づけばこうして美味しいものを囲んで乾杯しているというわけだ。もちろん美樹さんの言った通り頻繁にあることではないけれど、何度か繰り返されてきたことも事実だ。美樹さんも本当に嫌なら来ないことだってできるのだから、少しは彼女の気を紛らわす役に立っているのだろうと勝手に思う。

 それでも、最初の時はこうではなかった。
 もう何年も昔、私たちがまだ中学生だった頃、美樹さんが幼なじみの男の子に対して手痛く失恋したという次の日、やはり佐倉さんの呼びかけで私たちは夕方のファーストフード店に集った。
 その日はさすがに佐倉さんも心配そうな様子で美樹さんを迎え、
「……さやか」
「杏子、マミさん。やあ、ひどい顔でしょ」
 美樹さんはろくに眠れてもいない様子で、わたしたちに向かって笑った。窓際の席、ガラス張りの一面に並んで座ると、傾いた日が街のビルの半分を橙に照らし、もう半分を灰色にして、街ゆく人に陰気な影を落としている。わたしたち二人に挟まれた美樹さんは、静かにハンバーガーを齧り、佐倉さんが無言のまま心配そうに彼女を窺う様子がガラスに映った。
 そうして私たちの中の誰も話しだせないうちにプラスチックのお盆に残ったポテトはすっかり冷めてしまい、手を伸ばすペースもほとんどゼロになったころ、ようやく美樹さんが口を開いた。恭介はね、と彼女は失恋の彼のことをそう呼んで、彼が幼なじみだという話や美樹さんにかわり彼を射止めたという親友の女の子の話を、ときどき口をつぐみながら、絞り出すように話す。
 美樹さんの語る話は、私の知らない彼女の物語だった。それに耳を傾けるあいだ、ほんの一面しか知らなかった私の中の美樹さんがその泣き顔とともに、存在感を増していった。

 それから、また会う機会も次第に少なくなっていた頃、美樹さんが二度目の失恋をしたという話を聞きつけたとき、正直に言えば、佐倉さんからの連絡を期待していた気持ちがあったことは否定できない。あの、夕方のファーストフード店の出来事は、以来常に頭の片隅に残っていたのだ。泣き疲れた顔で諦めきれない恋を語る美樹さんの横顔は、あの後もたびたび私の脳裏に蘇っていた。
 はたして佐倉さんは私たちをカラオケに呼びつけ、それは前回より多少なりとも賑やかな時間となった。美樹さんも佐倉さんも、明るい曲調の歌ばかりを、力のかぎりに歌った。私が歌うあいだ、並んで座る二人で顔を寄せ、はやし立てる佐倉さんに美樹さんが今度の相手の男の子の悪口を言ってみせるのを見て、最初の失恋の痛みを引きずる彼女の内心を私は思った。

 突然視界に鍋が現れて、追憶が中断された。注文していたメニューがやってきたのだ。鍋越しに見える美樹さんは鍋から溢れんばかりに山盛りの食材に目を輝かせ、その顔にはふさいだり落ち込んでいる様子はなくて、けれど幾つもの経験が彼女の感じ方を数年前のそれから変化させてしまったとしても、それで彼女の純粋さが損なわれるわけでは決してない。
 目の前の二人の飲み物はすでにほとんど空になって、話はまだ途切れることもなく続いているようだった。
 美樹さんが意地悪そうな顔をして佐倉さんに言う。
「そういうあんただって、いつ浮いた話が出るか分からないわよ。茶化す余裕もなくなるんだから」
「あたしたちはさやか一筋だからな、心配してもらわなくても大丈夫だよ」
 片耳でその会話を聞きながら、近くの店員さんに飲み物のお代わりを注文しようと考えていると突然、佐倉さんが私に水を向ける。
「なあ、マミさん」
 えっ、と聞き返して顔を向けると、美樹さんと佐倉さんがこちらを見ている。佐倉さんは私が美樹さん一筋だといって、呼んだのだ。私は急速に頭をはたらかせる。あわてて図星と取られるような態度をとってはまずいし、はっきり否定して本気にとられても悲しい。
 私はすぐに答えを決め、佐倉さんの冗談めいた言葉に少しだけ心を込めて、微笑む。
「ええ、そうよ。私、美樹さん一筋だもの」
 本人を目の前にそう口に出してみるといっそ清々しく、自分の口をついて出た言葉に私自身がはっとさせられる。
 どぎまぎするのを隠そうと努める私に、あはは、と美樹さんは明るく笑って、
「マミさんみたいに綺麗な人なら、男に困ったりしないでしょ。あたしが男だったら絶対マミさんのこと好きになるよ」
 その言葉に悲しくも一瞬心がときめき、すぐに、だめだめこれはお世辞、社交辞令だからと言い聞かせ、けれど余韻がじんじんと胸を満たす。彼女の顔を直視できずテーブルに目をやると、まだお代わりを頼んでいなかったことに気がつく。
 私があわてて店員さんを呼び飲み物の注文をすると、また美樹さんは佐倉さんと他愛もない話をはじめ、時おり私も混じって、暖かい鍋とお酒に、三人して酔っていった。

 店を出ると、まだ涼しげな夜の道にはちらほらと人の姿が見える。私と美樹さんは隣街に帰る佐倉さんを駅まで送り、車通りもないまっすぐな道路を、ゆったり並んで歩く。それから交差点に差しかかるまでの間が、短いふたりきりの時間だ。
 私は隣を歩く美樹さんに語りかける。
「佐倉さんといると、楽しいわね」
「そうですね。あいつは話しやすいから」
 美樹さんが頷く。きのう彼女からメールが来てね、と他愛もない話を私は続け、佐倉さんがいかに美樹さんのことを心配しているかについてぺらぺらと喋りながら、内心ため息をつく。せっかく二人きりなのに、まだ佐倉さんの話をしているなんて。私はいつもこうやって人に花を持たせてばかりいる。でもこの件に限って言えば、嘘やお世辞を言っているわけでもなかった。私たちが今夜集まったのは、すべて彼女のお陰なのだ。それにいつも、美樹さんの話し相手になるのは佐倉さんで、私はそれを、ニコニコ笑って聞いているだけ。美樹さんが誰に会いに来ているのかは一目瞭然というわけだ。
 そんなことをもんもんと考えている私に、でも、と美樹さんが言った。
「マミさんがいてくれるのも嬉しいよ、あたし」
 道沿いのコンビニエンスストアの明かりが照らしだす美樹さんの横顔を、私はまじまじと見つめてしまう。美樹さんが視線に気付いて私と目を合わせ、照れたように笑ったときの彼女の顔を、私はまた幾度となく思い返すのだろう。
 ありがとう、と応えるタイミングを失って、無言になってしまった。頭の中で話題を探しているうちに最後の交差点に辿りつき、二人立ちどまる。別れの前の最後のタイミングを見計らって、私は声をかける。
「またごはん、食べに行きましょう」
「それってまた失恋しろってことですか? そう簡単にはいきませんよ」
 美樹さんがにやにやとした顔で言うのであわてて否定すると、彼女は冗談ですよ、また行きましょうと笑って手を振った。
 背を向けた美樹さんが暗く、見えなくなるまで見送り、私も帰ろうと考える。街の灯りが静かに行く手を照らすのを眺めると、うっすらとした満足感が私を包んでいる。今はまだ、とひとり呟いて私はこの夜に歩きだし、自分自身に心の中で語りかける。数年前から続く道はまだ途切れてはいない。今はまだ秘していよう、私の、ひそやかな恋。