ジェットガール

ときどき書きます

マイ・ガール

「ほら、できたわよ」
 肩を軽く叩いて今日のお姫様を鏡の前に立たせると、そこに映る自分の姿を目にして、真が小さく息を呑む。
「わあ……本当に、こんな服着ちゃっていいのかな、ボク?」
 体を左右に捻って自分の姿を確認しながらはしゃぐ様子に、そばに立つ伊織は満足げな笑みを浮かべ、胸を反らしていつもの偉そうな口調で言う。
「当然じゃない、この私が見立ててあげたんだもの。ピンクでフリフリの服なんかより、こういうもののほうが似合ってるわ」
「う、うん。ありがとう」
 鏡に映る真は服装がそうさせるのか、いつもより幾分しおらしい。伊織は真の全身を上から下まで眺めてみる。肩口から鎖骨を見せる薄いブラウスに、淡い色の、膝上丈のスカート。こうして見ると……うん、申し分なく、よそ行きの格好をした、ひとりの可愛い女の子だ。
 水瀬家の大きな窓から差す夏の日差しは二人のいる部屋の一角を眩しく切り取り、はじけた光が、明るい服に身を包んだ真の姿をなお鮮かに彩っている。この休日、買い物に付き合うため家を訪れた真を伊織は部屋にあげて、強引に、彼女のために用意していた服へ着替えさせたのだ。自分で言うのもなんだけど、まあなかなか似合っているじゃないの、と伊織は内心満足する。
「不安そうな顔をしないの、可愛いわよ」
「え、そう?」
 鏡の中の真がぱっと顔を輝かせるので伊織はつい意地悪な気持ちになって、私の次にね、とつけ加えると、真は苦笑した。
 しばらくの間鏡に向かってためつすがめつし満足したのか、振り返って今度は伊織とじかに向き合った真は、伊織を一瞥して、何か言いたげな表情だ。それもそのはず、と伊織は考える。なにせ今日の伊織は、いつものかわいらしい服装とまったく逆行しているのだ。真と並んで立っていると、伊織は長い髪をアップにまとめてつばのついた帽子に納め、七分丈のパンツに半袖のパーカーという、これじゃあまるで、
「男の子みたいだって、思ってるんでしょ」
 鋭く言うと真は咄嗟に応えられずに口ごもり、図星ね、と伊織は心の中で思う。根が正直なのか考えていることをそうやってすぐ表情に出してしまう真に、伊織はウィンクして言う。
「あら、変な顔しないでよ。伊織ちゃんはボーイッシュな服装だって、似合うでしょ?」
 真剣な顔でうんうん、と頷く真を見て、伊織は微笑んだ。似合っていると言ってもらえたからではない。こうやっていつもどんなことでも、他人に対して真摯で、正直で、真のそういうまっすぐな所が、伊織は気に入っているのだった。
 それから、と伊織は言う。
「今日はその格好のまま出かけるわよ」
「ええっ!」
 突然の命令に目を丸くする真に、何のために着替えさせたと思っているの、と伊織は続ける。
「似合ってるんだから問題ないでしょ。今日はね、私、真をとことん女の子扱いするって決めたの」
 それは以前からひとりで考えていたことだった。休日に二人で出歩いているといつも、伊織と並んだ真は男のように扱われ、その度に彼女は明るく振る舞うけれど、後になってふっと悲しそうな顔をするのを、伊織は口にこそしなかったもののずっと気にかけていた。それでここのところは、事務所にいる時にはさりげなく真の身体のサイズを調べ、オフになると真の顔やスタイルに似合う服を選別する日々を送り、ようやく満足できるプランができて、伊織は何気ない風を裝って真を買い物に誘ったのだ。
「これは私のわがままだから」
 真がきょとんとしているので、伊織はもう一押ししてやる。そう言ってみればわがままなのは確かだったが、こうやって強引にするくらいでないと快活なこの少女は変なところで臆病になってしまうことも伊織は知っていた。だからこれ以上聞かないでよね、と心の中でつぶやいて顔をそらす。この辺の機微はお互い知れたもので、真は笑って言う。
「へへ、伊織の言うことじゃあ仕方ないね」
 その言い方がいやにきまっていて、また真は王子様になっているわと伊織は思う。けれど、
「……ん」
 そう言って腕を伸ばして、細長い指をわずかに開いた掌を見せるその仕草にも、少しうつむいた表情にも、いま一瞬見せた凛々しさなんてものは欠片もなくて、伊織の前で控えめに手を差し出すのは、非の打ちどころもなく、少女だった。
 わざと眉をひそめて、伊織は尋ねる。
「何よこの手は」
「ええっ、そんなことも知らないの? 女の子はデートをリードしてもらう役なんだよ」
 大げさに驚いてみせた真は、手を差し出したままニコニコと伊織の手を待っている。そうこなくっちゃ。
「まったく、いい性格してるわよ!」
 そう言いながら、伊織はしっかりと真の手を取った。

 ドアを開けると、眩しい日差しと熱気がふたりを包んだ。両側を深緑の木々とセミの鳴き声に挟まれた細い路地を抜けて大通りに出ると、駅へと続くいつもの道を歩く。伊織はできるだけさりげなく並んだつもりだったけれど、真は目ざとく気づき、歩きながら、
「ねえ、もしかして伊織、わざと車道側に立ってくれてる?」
 と訊く。考えを見透かされたようでばつが悪そうに頷くと真は目を輝かせて、感激だよ、なんて言っているので、それほどのことだったのかなと伊織は少し不思議に思った。だけどそうやって歩いてみると、伊織のすぐ脇を車が流れていく今日の景色にはどことなく違和感があって、それで気がついた。
「あんた、今までずっと車道側に立ってくれていたのね……」
 さあどうかな、とはぐらかす真に、伊織は申し訳ないと思う。真と出歩くときの伊織はずっとわがままを言い通しで、それに文句も言わずニコニコと応えてくれる彼女に、伊織はずっと甘えていた。今日伊織がこんなことを言い出さなければ、彼女は何も言わずに車道側を歩き続けただろうか。
 考えこんでいると真が、伊織は優しいねと笑うので、それはこっちの台詞だわ、と思いながら、口には出せずに伊織は髪を揺すった。

 真が特に行きたい場所もないのなら、少し遠出をして港のある街に行こうと伊織は言った。真は近くの映画館でもいいよと言ったが、せっかくの格好をした真を何時間も暗いところに閉じこめるなんて手はないと伊織は却下し、真も特に反対はしなかった。考えてみればいつも事務所や互いの家に近い所を訪ねるばかりだったので、休日に遠出をするのは初めてのことだった。駅までの二人分の切符を買って、伊織は真に手渡した。
 電車の中は空調が効いていて、短かい道程で日差しに苛まれた肌がすっと冷えて心地いい。ドアに体を寄りかからせて伊織はほっと息をつくと、隣に立つ真に声をかけた。
「どうしたの、そわそわしちゃって」
「なんだかこのスカート、短くてさ……」
「ステージ衣装だって、そのくらいのがあるじゃない」
「オフで着ると緊張しちゃうんだよ!」
 真が世界の一大事みたいな表情で言うので、伊織は可笑しいと思う。スースーするよ、と言って窓の向こうを流れるビルを眺めている真の横顔は少し落ち着かなさげで、またからかいたくなる。
「初めてスカート穿いた男の子みたいになってるわよ」
 なんてことを言うんだよ、と不満顔で振り向いた真に、伊織は言い含めるように語りかける。
「今日街を歩けばボンクラ男どもが真、あんたを見て振り返るのよ。もっと堂々としてなさい」
「そうなの? なんだか緊張してきたよ」
 少し声を高くして言う真に、冗談よ、と伊織は顔も見ずに言う。見なくても、真が落胆する様子が伝わってくる。ころころと表情を変える真が今日は一段と可愛いくて、伊織はつい余計なことまで言ってしまう。
「だからって、その辺の男にほいほいついて行っちゃだめよ!」
 そう言ったとき、電車がカーブに差し掛かった。車内が傾いて、周囲の乗客も体を揺らす。バランスを崩した伊織がとっさに伸ばした腕を、真はしっかりと掴んで支えて、
「はいはい、伊織お嬢さま」
 笑いながら答える声が、伊織の頬に血を上らせる。これじゃダメだわ、いつも通りの王子様の真と、いつも通りのわがままな伊織になってしまっている。
 車内アナウンスが流れ、あと数駅で目的の駅に着くことを告げた。伊織は真に訊いてみる。
「ねえ、今日、何かしてほしいことある? 何でもいいわよ」
「んー、ボクは伊織が楽しんでくれればいいけど」
「もう、そういうこと言わないでって言ってるの。何かあるでしょ」
 きっとあるはずなのだ、真がずっと押し殺してきた夢――とまでは言わなくとも、ベッドで目を瞑ったときに夢想するような、自分でも気づいていないような願いが。女の子として扱われたいというひとつの大きな望みが果たされたいまがチャンスなのだと、伊織は勢い込んで、懇願というよりは強要といった口調でなおも尋ねると真は困ったような顔で、考えておくよ、と笑った。

 真の願いを叶えるチャンスは、駅から続く繁華街を歩いている時に訪れた。通りかかったアクセサリーショップに目を留めた真が立ち止まり、気づいて振り返った伊織に声をかける。
「ねえ伊織、さっき言ってた『してほしいこと』だけど」
「なあに、何か思いついた?」
「うん、指輪。指輪が欲しいな、ボク。ペアリングでさ」
 ペアリングという言葉を耳にしたところで、はあっ、と伊織がすっ頓狂な声をあげる。目の前の少女は悪戯を成功させた子供みたいににやにやと笑っている。わざと無茶を言っているのだと伊織は思って、売り言葉に買い言葉で、いいわ、ついて来なさいと言い、逆に戸惑う真を置いて店へと入った。話を聞いた店員は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに営業スマイルに戻って指輪選びを手伝ってくれた。真は一度だけ、本当にいいの、と訊いたけれど、真顔で頷く伊織を見るとどこか嬉しそうに口を閉ざした。
 二人分の指輪を受け取ると、伊織はその場では渡さずに、真がついて来るのにまかせてすたすた歩いていく。伊織はこうなったらとことんという気持ちで、海の見える公園のベンチに真を座らせると、その片手を取った。先ほどの店で買った指輪を取り出して手にゆっくりと嵌めてやるうちに、お互い照れていることに気づいて、目を合わせることができない。その間ずっと無言だった真は、やがて指を飾る安っぽい指輪を夕陽にかざすと嬉しそうに笑って、ありがとう、大切にするよと言った。
 真の服を取りに一度家に寄ってから、彼女を駅まで送った伊織は別れ際、「事務所に指輪をつけてこないこと」と念を押した。大丈夫だよ、今日はありがとうと言って改札越しに真は手を振る。そう、じゃあまた明日、おやすみと答えて振り返す伊織の手にも蛍光灯に照らされて、同じ指輪が光っていた。
 それからひとり部屋に戻った伊織は、指輪を外して、じっと考えごとをするようにその光沢を見つめていた。

 翌日。いつもより少しだけ早く事務所に来て暇を潰していた伊織は、おはよう、という元気な声に顔を上げ、やってきた真の手にすばやく目を走らせる。その華奢な指たちには曇りも装飾もなく、言いつけは守ってるわね、と伊織は安堵の息をつく。と、春香が真に話しかける声が聞こえてくる。
「あれー、真、その指輪どうしたの?」
 指輪なんかしてなかったはずだわ、と伊織がもう一度遠目に確認すると、真の首から、チェーンで指輪が下げられている。あたふたと弁明をしようとする真を春香がからかっている。その賑やかな様子に、事務所にいた他の女の子たちも寄ってきて、じきに真は質問責めになるだろう。伊織はまったく、と呟きながら、小さく額を抑える。屈んで開いた服の隙間からは、同じようにして首にかけられた指輪が覗いていた。