ジェットガール

ときどき書きます

レイト・バレンタイン

 八月二十九日、晴れ。身体を押しつぶすような暑さはようやくなりをひそめ、時おり風が吹いて私たちを元気にさせる。けれど太陽はまだまだ満足できていないみたいに光を振りまいている。こんな季節に生まれた女の子が、どれほど元気で、優しくて、素敵か、私は知っている。
 涼しくなってきたとはいえ、まだ窓から見おろせばコンクリートは熱を放射しているし、街ゆく人々はじっとりと汗をかきながら歩き、クーラーの効いた屋内を探し求めている。そんな中で冬のころを思い出してみても、なんであんなに厚着をしなくちゃいけなかったのか、寒いってのはどういうことだったか、分からなくて不思議に思うけれど——。

 半年前、そのとき真ちゃんは、恋をしていた。まだ二人とも候補生という身分で、レッスンの終わる時間が揃ったときにはいつもそうしていたように、真ちゃんと私とで二人、あてもなく寄り道しながら街を歩いていたときのことだった。私が店のショーウィンドウに気を取られていると、隣の真ちゃんが不意に口を開いた。
「そういえば、もうすぐだね」
 何のこと? と私が顔をあげると真ちゃんはなぜか恥ずかしそうに、視線を合わせようともしない。気の早い冬の落日が急速に明るさを失うその最後の橙が真ちゃんの肩に少し残っていた。言いだしかねるように無言だった真ちゃんのその様子で、私は彼女が何のことを言っているか分かってしまったのだった。了解したような私の顔を見て、真ちゃんもほっとした表情を見せる。そうだね、真ちゃん、もうすぐバレンタインだったね。
「真ちゃんは、誰かにあげようと思ってるの?」
「うん」
「私の知ってるひと?」
 んー、と少し逡巡したのち彼女は、ううん、と言った。そっか、どんな人なんだろうと私がつぶやくと、真ちゃんはその人のことを想像したのか、彼女が今や薄暗くなった街なかにあっても分かるくらいに赤らめた頬を隠すようにマフラーに顔をうずめる様子がとても可愛くて、私は思わず嬉しくなってしまう。
「雪歩、笑ってる? やっぱり変かなあ」
「そんなことないよ。素敵だなあって思ったの」
「それより雪歩はどうするのさ」
「私はいま、真ちゃんにあげようと思ったよ」
「なんだいそれ」
 そう言って真ちゃんは笑った。
「私たちがアイドルになったら、こんなイベントともお別れだね」
「そんなの、望むところさ」

 真ちゃんのバレンタインがどういう結末になったのか、私は知らない。その後、真ちゃんからその話を聞くことはなかったから。そのころから事務所の活動に打ちこむようになった真ちゃんの様子を思うと、いい結果ではなかったのかもしれない……。それから真ちゃんがいくつかのオーディションに続けざまに合格し、いよいよアイドルとして活躍する一方、私はと言えば、彼女の姿に憧れはすれ、自分のほうはいまひとつふるわず、お世辞にもアイドルとは言えない状況で時間を持てあましていた。情けないことにバレンタインデーにも結局、何もできなかった。そのことをずっと引きずっていたのだ。
 それから半年が経って、チャンスが巡ってきた。それが今日だ。真ちゃんの誕生日だ。
 私にできたのはただ、お菓子を作ってきただけなのだけれど。
 本来なら用事のない日だったけれど、お菓子の包みをたずさえ、午後になってから顔を出した。事務所に真ちゃんはいなかった。留守番をしていた小鳥さんにスケジュールを見せてもらうと、真っ黒だった。こんな日でも、いや、こんな日だからこそ、真ちゃんは忙しいのだ。彼女は今日、普段よりも大きな会場でのイベントに向かっている。半年前とは違うのだ。真ちゃんはアイドルになってしまった。
 今日真ちゃんは、あちこちでひきもきらず彼女を愛する人たちに囲まれ、祝われるのだろう。だってそれがアイドルだから。
 私はバッグから小さな包みを取り出して、見つめた。ちょっと早起きして作っただけの、つまらない焼き菓子。事務所には真ちゃんのファンの人達からのプレゼントがいくつも届けられていた。あの中に混じったら、目印もない私の包みはもう見分けがつかなくなってしまう。
「あら雪歩ちゃん、それ、真ちゃんに?」
 小鳥さんの声で私は我に返る。
「はい、そう思って来たんですけど……。今日は遅くなりそうですね」
「そうねえ。せっかくだから、今日じゅうに帰ってこられるといいんだけど」
 気長に待つつもりで、私は立ちあがりかけた腰をソファに下ろした。

 知らぬ間に眠っていたらしい。目をさましてあたりを見まわしたときには、窓の外は真っ暗になっていた。向かいのビルの年季の入った窓ガラスたち、事務机に向かった小鳥さんの姿を目にして、私は自分が雑居ビルの二階、事務所の中にいることを思いだした。
 崩れかけた体勢を起こして壁の時計を見あげると、もう二十三時を過ぎていた。事務所を見渡したけれど、小鳥さんと私のほかに人影はなく、つけっぱなしのテレビだけがわずかに音を発している。
「目がさめた? 真ちゃん、まだ帰ってきてないわよ」
「そうですか……」
 チャンスはとうに逃げてしまっていたのだ。諦めよう。
「もう遅いので帰ろうと思います」
「もうじきだと思うんだけど、待って
いない? 今日は車で来てるから、送っていってあげるわよ」
「いいえ、もう帰ります」
 ぼんやりとした頭で腰をあげた。プレゼントは持って帰ろう。
「そう……。じゃあ車を出してくるから、ちょっと待っててね」
 電車でいいです、と答えようとするのに気づかないふりをして強引に、小鳥さんは事務所を出ていった。私は仕方なく、窓ぎわに立って外を見おろす。

 夜は青かった。ぽつりぽつりと明かりをともすビルの間からは、淡く光る雲が顔を覗かせていた。見おろすと、時おり道路を走る車のライトが街路樹を浮かびあがらせた。私はしばらくその眺めを見ていた。タクシーが一台、事務所の下に停車した。小鳥さんの車がタクシーのはずはないけれど、と思っているとドアが開き、見知った顔が現れた。
 真ちゃんだ。
 衝動的に外に駆けだそうとしたが、いま離れると見失ってしまいそうに思い、私はそこにとどまった。窓を開くと、夜の空気が暖かかった。身を乗りだすようにして、真ちゃんを見おろす。私に気づいた真ちゃんがこちらを見上げる。街のざわめきで真ちゃんの声は聞こえないけれど、口の動きで何を言っているかはわかる。
「雪歩」
 私の名前を呼ぶと真ちゃんは駆けだし、ほどなくして事務所のドアが開いた。
「ただいま!」
「どうしたの、真ちゃん」
 ずっと待っていたというのに、こんな言葉しか口をついて出なかった。真ちゃんはドアから入ってきた勢いでソファに体を投げだすように座りこんだ。
「小鳥さんが教えてくれたんだ。雪歩が待ちくたびれて眠っちゃってるよ、って」
 小鳥さんには感謝しなくてはいけないな、と考えながら、私は真ちゃんの隣に座る。
「今日は一日気を張って疲れたよ。けど、雪歩の顔見たらなんだか安心した」
 真ちゃんはそう言って少しだけ私に寄りかかった。
「汗くさいでしょ」
「そんなことないよ」私の好きな匂い。頑張り屋さんの真ちゃん。
 そうだ、と言って手に持っていた包みを膝の上に置いた。
「誕生日おめでとう。大したものじゃないんだけど、これ」
 真ちゃんが嬉しそうに声をあげる。
「ありがとう、雪歩。そういえば今日、誕生日だったんだ……。いや、分かってたけどあんまり忙しくて、そんな風に感じること、なかったよ」
 真ちゃんは噛みしめるように言って、ゆっくりと息をした。
「これ、開けてもいい?」
「もちろん」
 包みが開かれ、また真ちゃんの歓声を聞く。
「疲れた体にチョコレート! こういうのだよ、ボクが求めてたのは」
 大げさな真ちゃんの言葉に、私はくすっと笑った。遅いバレンタインデーでもあるんだよ。っていうのは秘密。
「今日、最初のプレゼントが雪歩のでよかった」
「たくさん貰ったんじゃないの?」
「うーん、そうなんだけど、ひとつも開ける暇がなかったんだ。だから、嬉しいよ」
「よかった。何にもない誕生日じゃ、つまんないもんね」
「それだけじゃない、雪歩のだから嬉しいんだよ。雪歩なしじゃ、今のこのボクはなかったからさ」
「私、何かしたっけ?」
「たくさんね」
 そう話していたとき、テレビの声が零時の時を告げた。私たちは顔を見合わせる。
「誕生日、終わっちゃったね」
「あーあ、大変な一日だったよ」
 真ちゃんはそう言ってのびをする。
「お茶、入れてあげるね」
「へへ、ありがとう!」
 私はうん、と応えて立ちあがる。そのうちに車を取って戻ってきた小鳥さんが、上機嫌なのだろう私の顔を見て不思議そうな顔をして、それから真ちゃんに気づき、納得する。満足げに、私にもお茶をちょうだい、と言って席に戻る。真ちゃんも小鳥さんもそれぞれの場所にくつろいで座り、事務所の中はいつの間にか、賑やかになっている。

 八月三十日。今日はもう普通の日。私と真ちゃんは隣に座って、お菓子をつまみながら、お茶を飲み、とりとめもない話に笑う。仲のいい友達どうしがいつもそうするみたいに。