ジェットガール

ときどき書きます

日没

 窓から橙の強い光が差し込んで、気怠くソファに横たわる伊織の背中を濡らしている。ぼくはその横顔を眺めたまま押し黙って、彼女がテレビ番組のナレーションに小さく悪態をつくのを聞いていた。事務所の皆はそれぞれの仕事のために出払ってしまっていて、ぼくたちだけがただ、こうして目的もなく時間をつぶしているのだった。
 テレビから発される判然としない喋り声と、窓の外から感じられる街の雰囲気のほかに音もない。今やぼくたち二人にできることは何もなかった。ただ彼女との契約期間が切れる時間を待つほかには。

 前回のミーティングでいつもの喫茶店のテーブルに向かい合って座ったときには、伊織はすでに察していたのだと思う。すでに以前から何度も、はっきりとした形ではないにしろ、それは示唆されていたことだった。つまり、決まった期日までにこのランクを越えることができなかった場合には、ぼくたちのタッグは解消となり、彼女は最早アイドルでなくなってしまうということ。そのことをぼくがたどたどしく説明するのを観察するように、伊織はただ黙って、聞いていた。
「その日をもってぼくが君をプロデュースすることはなくなる訳だが、きみは依然アイドル候補生として活動を続けることができる。ふたたび、他のプロデューサーが現れるのを待って」
 見つめるばかりで何ひとつ口を挟もうともしない伊織の様子を気にしすぎていたのか、ぼくの説明は同じ台詞が繰り返されたり話が前後したりと、まったく要領を得なかったのだが、なんとか話の終わりにこぎつけて一息つくと、伊織はようやく口を開き、
「そう、……じゃあその日に私は事務所を辞めることにする」
 迷う様子も見せずあっさりと言って、気のなさそうに紅茶を一口すすった。カップをソーサーに置く。テーブルにかかる日射しが、暗い店内にあって彼女の姿を幽かに浮かびあがらせている。ぼくは返事も忘れていて、ただ、この場面に覚えがあると思った。

 一年前の同じ季節のこと、ふたりが出会ってからの最初のミーティングで初めて、この喫茶店を使った。事務所で軽い顔合わせをしたのち、どこか落ちついたところで大まかな計画を練ろう、と決め、午後の眩しい街なかを特にあてもなく歩いて適見つけた店だった。初対面の少女とふたり並んで歩く、ともすればぎこちない沈黙となってしまいそうな時間を、伊織についてのさまざまな、個人的な質問でぼくはなんとか埋めていった。
 当時は期待の新人プロデューサーという触れ込みだったぼくは、ビジュアルなら折り紙付き、花開くまではあと一歩と目されていた伊織を、プロデューサーというキャリアのその最初のパートナーとして選んだ。そうして運命を共にすることが決まった彼女と喫茶店のテーブルを挟んで向かいあったとき、ぼくは、未来の見えないことの不安と、そしてそれ以上に強く立ちあがってくる根拠のない輝かしい想像にスーツを膨らまし、半ば自分にいい聞かせるかのように彼女に語っていた。
「よろしく、水瀬くん。ぼくはきっときみをトップアイドルにしてみせるよ」
「なにそれ。当然じゃない」
 伊織は呆れたように肩をすくめてそう言った。なにしろこれからミーティングを始めようというときに口を開いて言った台詞がそんなざまだったので、ぼくは面喰らう暇もなく、むしろへんに楽しい気持ちになってしまって、何を言うこともできずにいた。そんなぼくを伊織は一瞥すると、あとは興味なげに紅茶を飲んでいた。カップを置いた彼女がぼそりと、まあそんなに期待はしていなかったけれど、と言い、それが紅茶を評したものなのかぼくを言ったものなのかは分からないままに、ぼくは苦笑いをした。そういう風にしてぼくたちの日々ははじまった。
 しかしそれからの日々は易しくはなかった。先の心強い彼女の言葉にも関わらず、ぼくたちの事業は難航した。ひと月が過ぎ、三ヶ月が経っても、表舞台に彼女が姿を現す機会はほとんどなく、ぼくたちは先の見えないまま地道な活動を続けざるを得なかった。彼女の前では決して顔に出さないようにしていたが、内心の焦りはひどく、家から事務所までの道程を往復するぼくの足どりは次第に重くなっていった。日差しがじりじりと肌を苛む真夏の街路に彼女を立たせて販促活動をさせるたびにひどい罪悪感がつきまとった。いつも通りほとんどなんの成果もない時間が終わり、次の現場に移動するため彼女をクーラーの効いた車の後部座席に乗せ、スポーツドリンクを手渡しながら、今日はとくに暑いし大変だったろう、お疲れさま、と声をかけると、彼女は額に汗の玉をふつふつと浮かべて、そうね、でもこんなことをしているのも面白いわ、などと言って笑うのだった。そんなことを言って、きみは何者にもなれないまま終わってしまうのかもしれないんだぞ、そうは言えずに、ぼくは黙ってハンドルを握った。バックミラーに目をやると伊織は、拭いても拭いても湧いてくる汗をタオルに染み込ませながら、道路沿いのつまらない景色を眺めていた。

 夕方になって風が吹いたらしく、窓から吹き込む風に事務所のブラインドがかたかたと音を立てて、ぼくの数秒間の回想を破った。顔がこわばっている。鏡を見なくても、知らず知らずのうちに苦しげな顔をしていたのだろうとわかる。そんなぼくをひとり措いて、伊織は平然とした顔をしていて、そこに何かのわだかまりがあるようにも見えない。その様子は超然としているとすら言ってよかった。
 しかし明日にはもうぼくらは、他人同士になってしまうのだ。伊織はただの高校生に、ぼくは(おそらくは)他のアイドルのプロデューサーになり、互いの時間を分かちあうこともなく、ただただ離れ離れになっていく。
 伊織がソファを立ち、事務机を漁って難なくどこかの鍵を見つけ出す。あ、と声をかける間もなく伊織はすたすたと事務所のドアを開け、外へと出てしまう。後を追うと、彼女は階段を上ったところにある屋上へのドアを開けているところだった。
 ぼくも事務所を後にし、少し遅れて屋上へ出ると、わずかに風が吹いていた。
「屋上は一応、勝手に出ちゃいけないことになってるんだが」
 ぼくの訝しげな視線に、伊織は弁解する風でもなく言う。
「じゃああんたが許可したってことにしなさい。少しくらいいいでしょ、これが最後なんだから」
 さいご、という伊織の言葉にぼくの身体はぼくが信じ込んでいたよりも過敏に反応した。仕方ないな、と答えようとしたが、声が擦れて、うまく言葉にならなかった。
「引退……のこと、気にしてるの」
 その問いかけに、ぼくは答えもない。
「そう、じゃあいいわ」
 そう言って街の眺めに目をやる。その横に並び、同じ景色を見つめると、今日の夕陽の名残りの中、街の灯りがあちこちに顔を見せてはじめている。
 伊織、とぼくは声をかけた。
「お疲れさま」
「あんたこそ」
「きみをアイドルとしてもっと輝かせることができなくて、すまなかった」
「謝るようなことじゃないわよ」
 伊織は静かに答える。
「プロデュースしている間に、いろいろなことがあった。伊織のことはずっと忘れられないだろう」
 そう言ったとき、伊織は突然ぼくの方に体を向け、
「あら、私はあんたのこと、忘れちゃうと思うわ……」
 それきり口をつぐみ、不思議な表情でぼくのことを見つめていた。
「どうしてだ、伊織、ぼくのプロデュースしていた期間はそんなに辛かったのか。もう思い出したくもないくらい」
「辛かっただなんて思ってないわよ。面白かったもの」
 伊織はぼくをあやすように言う。それでもぼくは訊かずにいられない。
「じゃあ、なぜ」
「ただ忘れるから、忘れるのよ。あんたはこれから何度となく、代わる代わるアイドルをプロデュースして、うまくいったり、うまくいかなかったりするその度に、私のことを思い出すんでしょう」
「そうかもしれない」苦い記憶として。
「同じことの繰り返しよね」
「それが大人ってことだよ」
「けど、私はそうじゃない。もうアイドル活動とは無縁の生活を私はするわ。ただの、いち高校生としての残りの期間。それから、高校を卒業してからのことだって、何ひとつとして同じ季節の繰り返しにはならないもの」
 私ってまだ大人じゃないんだから、と言って伊織は笑った。

 どこからか、夕方の、帰宅をうながす音楽が流れてきた。これでぼくらの契約は終了となった。『家路』もしくは『新世界より』と名付けられたその曲のメロディを伊織が口ずさむ。
「……さて、そろそろ帰る時間かしら」
 まるで友達の家を去るみたいに気軽な声で、伊織が言う。また、いつものように明日がやってくるみたいに。
「送るよ」
「あら、いい心がけね」

 伊織を送りながら、ぼくは彼女のことを思う。ぼくは彼女にまた会えるだろうか? 会えるだろう。何度も何度も繰り返す、プロデュースのうちにぼくは彼女にまた出会えると思う。そう伝えると伊織は頷いて、そうしなさいと言った。
 別れ際、最後にぼくは尋ねてみる。
「ぼくは今度こそうまくできるだろうか、なあ、伊織」
「さあ? きっとうまくいくわ、なんて言わないわよ、私は」