ジェットガール

ときどき書きます

レイト・バレンタイン

 八月二十九日、晴れ。身体を押しつぶすような暑さはようやくなりをひそめ、時おり風が吹いて私たちを元気にさせる。けれど太陽はまだまだ満足できていないみたいに光を振りまいている。こんな季節に生まれた女の子が、どれほど元気で、優しくて、素敵か、私は知っている。
 涼しくなってきたとはいえ、まだ窓から見おろせばコンクリートは熱を放射しているし、街ゆく人々はじっとりと汗をかきながら歩き、クーラーの効いた屋内を探し求めている。そんな中で冬のころを思い出してみても、なんであんなに厚着をしなくちゃいけなかったのか、寒いってのはどういうことだったか、分からなくて不思議に思うけれど——。

 半年前、そのとき真ちゃんは、恋をしていた。まだ二人とも候補生という身分で、レッスンの終わる時間が揃ったときにはいつもそうしていたように、真ちゃんと私とで二人、あてもなく寄り道しながら街を歩いていたときのことだった。私が店のショーウィンドウに気を取られていると、隣の真ちゃんが不意に口を開いた。
「そういえば、もうすぐだね」
 何のこと? と私が顔をあげると真ちゃんはなぜか恥ずかしそうに、視線を合わせようともしない。気の早い冬の落日が急速に明るさを失うその最後の橙が真ちゃんの肩に少し残っていた。言いだしかねるように無言だった真ちゃんのその様子で、私は彼女が何のことを言っているか分かってしまったのだった。了解したような私の顔を見て、真ちゃんもほっとした表情を見せる。そうだね、真ちゃん、もうすぐバレンタインだったね。
「真ちゃんは、誰かにあげようと思ってるの?」
「うん」
「私の知ってるひと?」
 んー、と少し逡巡したのち彼女は、ううん、と言った。そっか、どんな人なんだろうと私がつぶやくと、真ちゃんはその人のことを想像したのか、彼女が今や薄暗くなった街なかにあっても分かるくらいに赤らめた頬を隠すようにマフラーに顔をうずめる様子がとても可愛くて、私は思わず嬉しくなってしまう。
「雪歩、笑ってる? やっぱり変かなあ」
「そんなことないよ。素敵だなあって思ったの」
「それより雪歩はどうするのさ」
「私はいま、真ちゃんにあげようと思ったよ」
「なんだいそれ」
 そう言って真ちゃんは笑った。
「私たちがアイドルになったら、こんなイベントともお別れだね」
「そんなの、望むところさ」

 真ちゃんのバレンタインがどういう結末になったのか、私は知らない。その後、真ちゃんからその話を聞くことはなかったから。そのころから事務所の活動に打ちこむようになった真ちゃんの様子を思うと、いい結果ではなかったのかもしれない……。それから真ちゃんがいくつかのオーディションに続けざまに合格し、いよいよアイドルとして活躍する一方、私はと言えば、彼女の姿に憧れはすれ、自分のほうはいまひとつふるわず、お世辞にもアイドルとは言えない状況で時間を持てあましていた。情けないことにバレンタインデーにも結局、何もできなかった。そのことをずっと引きずっていたのだ。
 それから半年が経って、チャンスが巡ってきた。それが今日だ。真ちゃんの誕生日だ。
 私にできたのはただ、お菓子を作ってきただけなのだけれど。
 本来なら用事のない日だったけれど、お菓子の包みをたずさえ、午後になってから顔を出した。事務所に真ちゃんはいなかった。留守番をしていた小鳥さんにスケジュールを見せてもらうと、真っ黒だった。こんな日でも、いや、こんな日だからこそ、真ちゃんは忙しいのだ。彼女は今日、普段よりも大きな会場でのイベントに向かっている。半年前とは違うのだ。真ちゃんはアイドルになってしまった。
 今日真ちゃんは、あちこちでひきもきらず彼女を愛する人たちに囲まれ、祝われるのだろう。だってそれがアイドルだから。
 私はバッグから小さな包みを取り出して、見つめた。ちょっと早起きして作っただけの、つまらない焼き菓子。事務所には真ちゃんのファンの人達からのプレゼントがいくつも届けられていた。あの中に混じったら、目印もない私の包みはもう見分けがつかなくなってしまう。
「あら雪歩ちゃん、それ、真ちゃんに?」
 小鳥さんの声で私は我に返る。
「はい、そう思って来たんですけど……。今日は遅くなりそうですね」
「そうねえ。せっかくだから、今日じゅうに帰ってこられるといいんだけど」
 気長に待つつもりで、私は立ちあがりかけた腰をソファに下ろした。

 知らぬ間に眠っていたらしい。目をさましてあたりを見まわしたときには、窓の外は真っ暗になっていた。向かいのビルの年季の入った窓ガラスたち、事務机に向かった小鳥さんの姿を目にして、私は自分が雑居ビルの二階、事務所の中にいることを思いだした。
 崩れかけた体勢を起こして壁の時計を見あげると、もう二十三時を過ぎていた。事務所を見渡したけれど、小鳥さんと私のほかに人影はなく、つけっぱなしのテレビだけがわずかに音を発している。
「目がさめた? 真ちゃん、まだ帰ってきてないわよ」
「そうですか……」
 チャンスはとうに逃げてしまっていたのだ。諦めよう。
「もう遅いので帰ろうと思います」
「もうじきだと思うんだけど、待って
いない? 今日は車で来てるから、送っていってあげるわよ」
「いいえ、もう帰ります」
 ぼんやりとした頭で腰をあげた。プレゼントは持って帰ろう。
「そう……。じゃあ車を出してくるから、ちょっと待っててね」
 電車でいいです、と答えようとするのに気づかないふりをして強引に、小鳥さんは事務所を出ていった。私は仕方なく、窓ぎわに立って外を見おろす。

 夜は青かった。ぽつりぽつりと明かりをともすビルの間からは、淡く光る雲が顔を覗かせていた。見おろすと、時おり道路を走る車のライトが街路樹を浮かびあがらせた。私はしばらくその眺めを見ていた。タクシーが一台、事務所の下に停車した。小鳥さんの車がタクシーのはずはないけれど、と思っているとドアが開き、見知った顔が現れた。
 真ちゃんだ。
 衝動的に外に駆けだそうとしたが、いま離れると見失ってしまいそうに思い、私はそこにとどまった。窓を開くと、夜の空気が暖かかった。身を乗りだすようにして、真ちゃんを見おろす。私に気づいた真ちゃんがこちらを見上げる。街のざわめきで真ちゃんの声は聞こえないけれど、口の動きで何を言っているかはわかる。
「雪歩」
 私の名前を呼ぶと真ちゃんは駆けだし、ほどなくして事務所のドアが開いた。
「ただいま!」
「どうしたの、真ちゃん」
 ずっと待っていたというのに、こんな言葉しか口をついて出なかった。真ちゃんはドアから入ってきた勢いでソファに体を投げだすように座りこんだ。
「小鳥さんが教えてくれたんだ。雪歩が待ちくたびれて眠っちゃってるよ、って」
 小鳥さんには感謝しなくてはいけないな、と考えながら、私は真ちゃんの隣に座る。
「今日は一日気を張って疲れたよ。けど、雪歩の顔見たらなんだか安心した」
 真ちゃんはそう言って少しだけ私に寄りかかった。
「汗くさいでしょ」
「そんなことないよ」私の好きな匂い。頑張り屋さんの真ちゃん。
 そうだ、と言って手に持っていた包みを膝の上に置いた。
「誕生日おめでとう。大したものじゃないんだけど、これ」
 真ちゃんが嬉しそうに声をあげる。
「ありがとう、雪歩。そういえば今日、誕生日だったんだ……。いや、分かってたけどあんまり忙しくて、そんな風に感じること、なかったよ」
 真ちゃんは噛みしめるように言って、ゆっくりと息をした。
「これ、開けてもいい?」
「もちろん」
 包みが開かれ、また真ちゃんの歓声を聞く。
「疲れた体にチョコレート! こういうのだよ、ボクが求めてたのは」
 大げさな真ちゃんの言葉に、私はくすっと笑った。遅いバレンタインデーでもあるんだよ。っていうのは秘密。
「今日、最初のプレゼントが雪歩のでよかった」
「たくさん貰ったんじゃないの?」
「うーん、そうなんだけど、ひとつも開ける暇がなかったんだ。だから、嬉しいよ」
「よかった。何にもない誕生日じゃ、つまんないもんね」
「それだけじゃない、雪歩のだから嬉しいんだよ。雪歩なしじゃ、今のこのボクはなかったからさ」
「私、何かしたっけ?」
「たくさんね」
 そう話していたとき、テレビの声が零時の時を告げた。私たちは顔を見合わせる。
「誕生日、終わっちゃったね」
「あーあ、大変な一日だったよ」
 真ちゃんはそう言ってのびをする。
「お茶、入れてあげるね」
「へへ、ありがとう!」
 私はうん、と応えて立ちあがる。そのうちに車を取って戻ってきた小鳥さんが、上機嫌なのだろう私の顔を見て不思議そうな顔をして、それから真ちゃんに気づき、納得する。満足げに、私にもお茶をちょうだい、と言って席に戻る。真ちゃんも小鳥さんもそれぞれの場所にくつろいで座り、事務所の中はいつの間にか、賑やかになっている。

 八月三十日。今日はもう普通の日。私と真ちゃんは隣に座って、お菓子をつまみながら、お茶を飲み、とりとめもない話に笑う。仲のいい友達どうしがいつもそうするみたいに。

雨かぜの日

 昼ごろ外出したときにはすでに湿気まじりの生暖かい風が街路樹をざわざわと揺らしていた。見上げた空は薄暗く、凪ぐことなく流れる空気はいつもと違う雰囲気をはらんでいる。予報通り台風は今夜にもこの町を訪れるのだろう。天気というのはいつも勝手だと巴マミは思う。好きなだけ人を弄んだあげく、一日も経てば知らぬ顔をして過ぎ去っていくのだ。そんな嵐の予感に、人も車も、街ぜんたいが浮き足立っているのが分かる。
 今日は部屋に缶詰になるかもしれない、と思ったマミがスーパーであれもこれもとつい普段より多めの買い物をしている間に、ついに天気が崩れだした。店内から覗く外の景色に、雨の中を帰る羽目になる自分の姿を描いてマミは少しだけ憂鬱になるが、やがて覚悟を決める。スーパーの自動ドアが開くと、雨が道路を叩く音と、車が水を跳ねながら走る音だけがマミを迎えた。
 水滴を滴らせながら執拗にマミの足にまとわりつく傘や、いつもだったら買わないはずのお菓子だのコロッケだので膨らんだ荷物に内心悪態をつきつき袖を濡らしたマミがようやく家にたどり着いてみると、ドアの前に一人の少女が立っていた。赤い髪をポニーテールにしている、見知ったその顔は困ったような表情でマミを見ると、ずぶ濡れの体をわずかに震わせて照れるように笑う。
「……よう」
「佐倉さん」
 雨は激しく降っている。

 髪から服からぽたぽたと雫を垂らす佐倉杏子を脱衣所に押し込むと、マミはキッチンに立った。棚から薬缶を取りだしてコンロの上に置くと、シャワーの音が聞こえてくる。ティーポットと、カップのセットがしまってある戸棚を開く。いつもなら一人分しか使うことのないカップだけれど、今日はふたつばかり取り出して、丁寧にソーサーの上に並べる。
 風呂場の戸の通気口からは白い湯気がゆっくりと這い出している。マミは杏子が脱ぎ散らかした服を洗濯カゴに入れ、着替えが必要だわ、と思い至り、タンスから探しだしてきた部屋着を上下、戸の前に置きながら、曇りガラスに映る杏子の影に声をかける。
「お湯、調節できてる?」
「ああ、大丈夫」
「ここに着替えを置いておくから。服、全部洗っちゃうけど、いいでしょ」
「うん。……サンキュ」
 くぐもった返事は水音に消えてゆく。

 コンロのコックをひねると、ガスの青い炎が空気をはらみ、にぶい音を立てて燃え上がる。いつもの慣れた手順なのにどこか違って思えるのは、シャワーの音が背中から聞こえてくるからだろうか。
 マミはテレビの電源を入れてリモコンを操作するが、どの局も台風のことばかりだ。仕方がないので、ひま潰しに適当なチャンネルを流しっぱなしにして、見るともなく眺めている。台風の強さを述べあげるニュースキャスターの声をバックに、風に飛ばされないよう傘を抑えつけながら道をゆく人の姿が映る。
「はかない抵抗だな。傘なんか捨てちまえばいいのに」
 声に顔をあげると、マミの古い部屋着に身を包んだ杏子が立っていた。見るからにだぶだぶで、体格が違うのが露呈してしまっている。
「シャワー、ありがと。温まったよ」
「よかったわ。座ってていいわよ。今、紅茶を入れてあげるから」

 佐倉杏子はマミが淹れたミルクティーのマグカップを大事そうに両手で掴んで、冷まし冷まししながらゆっくりと口に含む。マミは隣に座ると、杏子に咎めるようなことを言う。
「ちょっと佐倉さん、髪が濡れたままじゃない」
「ああ……」
 杏子の生返事にため息をつくと、マミは床に放り投げられたバスタオルを杏子の頭に被せる。うわ、と小さく声をあげて首を曲げ、見あげる杏子に声をかける。
「ほら、カップを置いて。ちゃんと乾かしておかないと髪、傷むわよ」
 杏子は眠たげにううんと唸って、返事にならない返事をしている。それでマミはバスタオルごしに杏子の頭に手をのせると、髪をゴシゴシと拭きはじめた。無抵抗な頭は思いのほか不安定で、こわれもののようにマミは杏子に触れる。
「前が見えない」
「ちょっと我慢してなさい」
 杏子はマミの前にあぐらをかき、髪を拭かれるがままにしている。じっとしているのに飽きたのか、不意にああー、と声をあげ、自分の声を揺らして遊んでいるようなので、マミがふざけて乱暴に手を動かしてやると、杏子の声もわあわあと楽しげに上下する。

 ソファに体重をあずけたまま夕方どきのつまらないテレビ番組を並んで観ているうちに、杏子はうつらうつらし始めた。それに気づいたマミが、杏子を起こさないようにテレビの画面に目を向けつつ彼女の様子を窺っていると、ものの数分で規則的なリズムで息をしだして、ああ、眠ったんだとマミは思った。そうなってはじめて杏子のほうを向いて、彼女の横顔をまじまじと見る。その寝顔は、いつものあの刺々しい態度や戦いの中で見せる表情からは想像もつかないほど、穏やかな顔だ。水気を帯びたまつげは伏せられて、彼女たちを囲む厳しい現実を阻む鉄の護りとなっている。

 身体をこころもち丸めて眠る杏子にタオルケットをかけてやると、マミはそばに座ってその寝顔を見つめた。ガラス一枚へだてた外は依然として風雨はげしく、窓が時おりがたがたと音をたてる。テレビの音を消したので、部屋の中はずっと静寂を保っている。今だけは諍いも悩みもない、あどけない寝顔で、杏子は静かに寝息をたてている。
 戦いなんかなければ、彼女はずっとこのままでいられたのに。と、マミは思う。
 杏子は聖女だった。聖女の願いが反転し、その呪いを身にうけて、いまは魔法少女として苦しいときを生きている。翻って自分はどうなのだろうとマミは考えずにいられない。自分は……自分のいまの人生は何なのだろう。もともと誰かのために願ったのでもなかった。ただ自分が生きたいと願っただけの、おまけの人生。それだから却って正義の味方めいたことを標榜するのかもしれない。そうするしかもう、自分には生きる方法がないのかもしれない。

 杏子が身じろぎし、すこし眠りが浅くなっていると見てとって、マミはその身体に触れて、声をかける。
「佐倉さん」
「あ……マミ。寝てた」
「ええ。ちゃんと横になって寝なきゃだめよ」
 母親じみたことを言ったなと自分で思いながら、マミは寝ぼけ眼の杏子の手を引いて寝室まで連れてゆく。母親か。これは家族を失った私たちの、家族ごっこなのだろうか。ベッドに寝かせ、布団をかけてやっている間、杏子はすでに眠ってしまったかのように無言だったが、そのままマミがベッドのそばに座っていると、目蓋を閉じていてもそこにいるのが分かるのか、独り言を聞かせるように口を開く。
「……さっき、なんか夢みてた」
「どんな夢だった?」
「マミに後輩ができて、あんたを慕ってるっていうさ……。マミさんマミさんって言ってるんだよ、そいつらが」
 マミは泣きそうになる。そんな未来があり得るのだろうか。
「魔法少女が見た夢だ、正夢かもしんないよ」
「どうかしら、後輩だなんて。あなたはそんな風にはしてくれないのかしら?」
「あたしは一匹狼さ」
「雨宿り中の、ね」
 ふふん、と杏子は笑い、それから沈黙が続く。どうやら再びの眠りに落ちたらしいと、マミはしばらく経ってから気づいた。

 翌朝は台風一過でよく晴れた。服が乾ききるまでの間、マミは気乗りのしなそうな杏子を無理やりキッチンに立たせ、一緒に遅い朝食の準備をする。どうして杏子が自分のもとを訪れたのか昨日聞きそびれてしまったことに気づいて、マミはさりげなく水を向けてみたが、杏子は「近くに寄ったからさ」とはぐらかすだけだった。

 杏子は慣れた自分の服に着替えて立つと、さて、と言う。
「世話になったね。このお返しは次会うときに必ずするよ」
「お礼なんていらないわ。もっとゆっくりしていってもいいのよ」
「私も忙しいのさ」
 杏子は自分でもそう信じているのかいないのか、笑って、ドアに手をかける。その背中にマミは声をかけた。
「今度は晴れた日にいらっしゃい、狼さん」
 マミの言葉に杏子はきょとんとした顔をして振り返るが、すぐににやりと笑みを見せる。それきり一言も口にはしなくて、すぐに青空のもとへと去っていった。揺れるその後ろ髪を、マミはただ見送っていた。

きざはし

 きみは街を歩いている。穏やかな天候に時おり吹く風は涼しく爽やかで、きみは、気持ちのいい午後になったと思う。友人同士と思しき集団だとか、デートを楽しむカップルだとか、街ゆく人とときにはすれ違い、ときには同じ流れに乗りながら、きみはずんずん歩く。それに合わせて、きみのトレードマークの、頭のふたつのリボンがリズムよく揺れる。きみは高校生で、普通の女の子だから、普通の休日を楽しんでいる。
 都会は好きだときみは思う。人手が賑やかで、お店もたくさんある。もちろん地元の家の近くだって桜が咲けばきれいだし、嫌いじゃないけれど、街にはいろんな人がいるから楽しいと、きみは思う。
 何より——きみは耳を澄ます——街には音楽があふれている。さまざまな店舗がスピーカーから投げかける音楽をきみは好ましく思う。ときどき知っている曲があると、一緒に口ずさんだりもする。きみは歌うことが大好きだ。恋していると言ってもいいくらいに。

 横断歩道で信号待ちをしているあいだ、きみはビルの側面に取り付けられた大きなビジョンに目を向ける。そこでは今、さまざまな売り出し中のバンドや歌手の新曲が宣伝されている。一つ一つは短い時間しか流れないが、知らない歌がまだまだたくさんあるのだと知ることは、いつでもきみを喜ばせる。
 そうして画面に現れる大勢のうちの一人に、ふと、きみは目を奪われる。ほとんど無名の、ひとりのアイドルに。如月千早という名の、おそらくきみと同年代らしき少女が歌っている映像を目の当たりにして、きみは息をのむ。じきに画面が切り替わって、ほかのバンドの演奏になっても、きみの頭の中にある彼女の印象は消えていない。あの細い身体から生まれているとは信じられないのびやかな声も、歌詞にのせた細やかな感情も、まだ強烈にきみの中に響いている。あんな風に歌えたら気持ちいいだろうな、ときみは思う。しかしその表情なのか、歌声なのかは分からないが、少女がどことなく悲しみをはらんでいることにもきみは気づいている。
 信号が青になる。きみはすぐに頭の中で午後の予定を組み直して、CDショップへと足を向ける。新譜のコーナーで、彼女の顔を探す。目当てのものを見つけ、手に取り、どうやらこれが彼女のデビュー作らしいと知る。もともと買うつもりだったいくつかのCDと一緒に支払いを済ませると、きみは店を出る。
 ファストフード店の一角に席を取り、きみは鞄からポータブルCDプレーヤーを取り出す。街でCDを買う帰りはいつも、電車に乗っているあいだ、それを自分の部屋で聞けるようになるのが待ち遠しく、もどかしくなってしまうことに気づいてからきみは、母親から譲り受けたこの持ち運びができるプレーヤーを愛用している。それ以来きみは電車に揺られながら新しい歌を聞く習慣をおぼえ、このことが好きになった。けれど今日は電車に乗るまでの我慢もできないなんて、と思ってきみは少し笑う。そんな歌に出会えたことを嬉しく思う。
 包装をとき、ディスクを取りだしてプレーヤーにセットし、イヤホンを耳に着ける。ボタンを操作して再生をはじめると、ディスクが回転するわずかな振動が伝わってくる。両耳を通して、頭の中へと音楽が拡がっていく。そうして、空間のすべてが新しい旋律に包まれる。この、わくわくするような感覚をきみは楽しむ。すぐに、あの街頭で出会った歌を聞いていることがわかる。静かな前奏に耳を傾けているところに彼女の声が滑りこんでくると、きみははっとする。やはりこの子は凄い、ときみは素直に思う。きみは彼女を最初に目にしたときの哀しげな印象を思い出し、彼女のことをもっと知りたいと思う。
 全部の曲を聞いてしまうとまた最初に戻って、二周目を聞きながら、店で一緒に買った音楽雑誌を手もとにひろげる。きみはお目当てのページを見つける。ごちゃごちゃとした情報の詰まった頁の小さな一画に、如月千早というアイドルのプロフィールが載っている。きみはそれを熱心に読む。そうして、彼女はきみと同学年なのだと知る。期待の歌姫。765プロ所属。短くまとめられた情報をきみは、暗記できそうなくらいに、繰り返し読む。その歌声、その名前をきみに刻みこむ。

 夕暮れの街を駅に向かって歩いていると、きみは灯りのともった小汚い雑居ビルに気づく。これまで何度も通りがかっていたのに知らなかったが、窓ガラスに貼ってあるガムテープは、拙い文字で「765」と読める。今やきみにはそれが如月千早の事務所なのだと分かる。きみは立ちどまり、心の中で急に存在感を持ちだしたそのビルの窓を見上げる。
 好奇心のなせるわざか、それとも偶然が後押ししたのか、意を決したきみは雑居ビルの階段を昇って、その事務所のドアの前に立つ。やはり綺麗とは言えないドアのすりガラスの向こうに蛍光灯の明かりが深く漂い、漏れ落ちた光が暗い廊下の足もとに投げかけられている。中からは若い女の子の声や、大人の男の人の声が混じりあって、何を言っているかはわからないけれど、楽しそうな、あたたかそうな雰囲気をきみは感じる。ドアのそばには「アイドル候補生募集中!」などとうたったチラシが置いてあって、きみはそれを一枚手に取り、読んでみる。何人かの所属アイドルの名前と顔写真が載っている中には、如月千早の名前もある。きみはチラシをきれいに折って鞄におさめると踵を返し、階段を降りてゆく。
 事務所の中にいた一人が人影に気づいてドアを開いてみるが、そこにきみの姿はなく、その人物が首をかしげているころには、もうきみは駅へと駆け出している。

 きみは家路の長い距離を電車に揺られながら、アイドルという存在について考えている。アイドルという言葉が頭の中を駆け巡っている。家に帰りつき、夕食を食べ、お風呂に入っていても、ベッドに横になりながら、今日の事務所のチラシを眺めているあいだも、ある一つの考えが頭を離れない。
 アイドルになるということ。もし同じ立場に立てたら、彼女と友達になれるだろうか。
 知らぬ間に寝ていたことに気づいたきみが時計を見ると、もう深夜といっていい時間だ。カーテンに手を伸ばして窓を開けると、夜の音が聞こえる。遠くでは月が、眠る家々を、きみを見下ろし、静かに照らしている。きみはもう一度彼女の歌声を聞いてから眠ることにする。そうして歌声に耳を傾けていると、彼女のことを、なぜだか身近な存在のように感じる。不思議だが、そのことこそがアイドルなのかもしれないときみは思う。手が届かないけれど、どこにいてもそばについている月のように。そう思って満足したきみは、今度こそ眠りにつく。

 朝になっても、きのうの考えはきみの頭に残りつづけている。それどころか、いいアイデアだという思いが強まっている。きみは自分の目標を見つけたと、子供のころからの夢を取り戻したと考える。そしてもちろん、あのチラシに電話番号が載っていたことに思いあたる。きみは数日のうちに、そこへと電話をかけている。

 一週間後、また街へと出たきみは、今度はまっすぐあの雑居ビルに向かっている。電話口で言われたとおり、バッグの中には緊張ぎみの表情を撮った写真とともに、履歴書がちゃんと入っている。ビルの窓は昼間に見あげてみると、先週見たときほど汚なくはないし、恐ろしくもない。きみは一段ずつ階段を昇ってゆく。一歩一歩、しっかりと、転ばないように。

 もうすぐ、きみはドアの前に立つ。深呼吸をして、きみはそのドアを開く。事務所にいた少女たちがきみに気づき、彼女たちのいくつもの瞳がきみをとらえる。その中には街頭のあの少女、如月千早もいるのだが、緊張のあまり今はそれには気づかない。きみは息を深く吸う。この日のことはその後もしばらくのあいだ事務所で語り草となり、話題にのぼるたびに如月千早がくすくすと笑い、きみが赤面することになるのだが、それは未来の話だから、きみはまだそのことを知らない。場違いの挨拶を、緊張に少し上ずった、けれどめいっぱいの元気な大きな声で、きみは事務所いっぱいに叫ぶ。
「はじめまして、天海春香です! 私、アイドルになりたいです!」