ジェットガール

ときどき書きます

カーテンコール

 拍手の音は鳴り止まず、袖へと消えた私の背中に追いすがる。私は楽屋に戻る前に、もう一度だけ後ろをふり返った。暗いステージの上には誰もおらず、あるじを失った舞台装置とスモークの残滓だけがぼんやりと浮かび上がっている。私がそこに立つことはもうない。あの場所でスポットライトを浴びることは、もうない。私の、青春というにはあまりにも鮮やかで、あまりにもドロドロとした――しかし青春と呼ぶほかない、いびつな季節は終わりを告げた。秋月律子は今日、アイドルを引退したのだ。
 楽屋に戻ると感傷にひたる間もなく、同じ事務所の子たちがどやどやと入ってくる。口ぐちにねぎらいの言葉をかけてくれる彼女たちのその真ん中に立つのは星井美希、さすがに今日ばかりは神妙そうな顔をして抱える色とりどりの花束は、私に贈られるよりは彼女のそばにあるほうがずっとお似合いだろうと思う。美希は周囲に励まされるようにしてその花束を私に手渡すと、
「律子さん、お疲れさま。とっても綺麗だったの」
 と言い終わる前から涙声になる。
「あらあら、あんたが泣いてどうするのよ」
 軽口を叩くと美希は泣き笑いの表情になる。そうしてにわかに賑やかさを増した周囲に見守られる中、手のかかるこの後輩アイドルを慰めながら、私の視線はある姿を求めてさまよっていた。
 彼女――アイドル候補生の水瀬伊織は結局、その日の楽屋に姿を現さなかった。

 電車を降り改札を抜けると、その頃にはもう頭上を夏の夜空が青黒く覆っていた。私は終演後、駆け付けてくれた皆と一緒にプロデューサーの回してくれた車に乗って事務所へ帰り、ほかの子がお喋りに花を咲かせる間にこまごまとした事務手続きを済ませると、その日は長居もせずに事務所を去った。そのころにはもう元気になっていた美希などは、もうちょっといようよ、と言って引き留めたけど、それにはプロデューサーが口を挟んだ。
「甘えたい気持ちも分かるけどな、律子も全力を出し切って疲れてるだろ。明日からも会えるんだから、今日はもうゆっくり休ませてやってくれ」
 そう、アイドルは今日で引退したけれど、明日からも変わらず事務所には顔を出すのだ。私はこれから事務員としてここに所属することになっていた。もともと兼任でやっていたことだったし、この小さなプロダクションは常に人手不足なのだった。
 別れ際プロデューサーは握手を求め、私もその手を強く握り返した。生き急ぐように駆けていったアイドルの日々、私たちはよき仕事仲間だった。アイドルの身ながら、私は駆け出しの彼の仕事をフォローした。律子がプロデューサーになった方がいいんじゃないのか、なんて愚痴るように言われたことも一度ならずあったけれど、私の方でもこの業界の裏表について少なくないことを彼から学んでいた。
 自分がステージに立つことはもうなくても、後輩のアイドルや伊織たち候補生、これから華やかな世界で輝くことになる彼女たちを背中から支えることができるのだと考えると、私の胸は弾んだ。引退を決めてからこちら、私はこの世界のことを気に入っているのだと気づかされるばかりだった。

 駅を出たところで、一人の少女の姿があった。暗い道路を背にして、駅舎の投げかける冷たい光に照らされている。仁王立ちした彼女は花束を片手に、行き来する人たちの流れに挑戦するかのように口をぎゅっと結んでいる。すらっとして落ちついた服装とは不釣り合いな少女じみた表情を目にして、私は微笑んだ。景色を見るともなしに見る視線、体重のかけ方、見慣れたその立ち姿は、伊織だった。顔を覗きこむようにして近づくと、彼女もこちらに気付いた。
「律子」
「どうしたの伊織、こんな所で」
「偶然ね、ちょっと通りかかったの」
 伊織が口早に、まるで用意していたみたいな台詞を言う。さっきのあなたの様子じゃとてもそうは見えなかったけれど。この子をアイドルに仕立てるにはまず演技レッスンから必要ね……私はそんな内心を口には出さず、頬を紅くする彼女に、せっかくだからどこか落ち着ける場所にでも行こうかと提案する。彼女は黙って頷いた。
 夜の駅前は仕事を終えた大人たちがとぼとぼと行き交い、私たちはなんとなく無言で歩いた。生暖かい風が私たちの腕を撫で、街路樹がさわさわと音を立てる。駅から続く道沿いのファミリーレストランが見えてきたところで、ようやく私が口を開いた。
「どのくらい待ってたの」
「そんなに。三十分くらいよ」
 偶然ね、と言ったのはどこへやら、伊織は正直に告白する。こうやって二人で歩いている今となってはどうせお互い気にしなかったから、いちいち問い詰めるようなことでもなかった。
「……花束、渡そうと思って」
「なあに、嬉しいわね。楽屋に持って来てくれてもよかったのに」
「美希が持っていた花束、立派だった」
 伊織は並んだまま顔も見ずに、独り言みたいに呟く。
「みんなが贈ってくれた分ね。さすがに家には持って帰れなくて、事務所に飾ってあるわ」
 そう言って肩をすくめると、伊織が立ち止まったのに気づき、振り返る。伊織は私を見つめていた。店から客が出てきたのか、後ろから店内のがやがやとした音が私の耳に届き、すぐに消えた。
「律子。これ」
 ずっと握りしめていた小さな薔薇の花束をまっすぐ私に突きつける。決闘でも申し込んでるみたいね、と苦笑しながら、私はそれを受け取った。
「ありがとう。じゃあこれは、自分の部屋に飾ろうかな」
「……え、是非そうしなさい」
 ようやく伊織は笑った。

 私たちは窓際のテーブルに向かいあって座り、それぞれパフェを食べた。語らう人の声ごえで雑然とする店内に、店員を呼び出す間の抜けたチャイムの音が聞こえてきて、それが何となく私を安心させる。
 伊織が顔を見せなかった楽屋での話を、私は聞かせてやっていた。
「美希がね、楽屋で私に花束を渡してくれたんだけど、突然泣きだしちゃって」
 伊織はパフェを掬っていた手を止め、何かを考えるように目を臥せる。
「あの子はあんたに憧れていたものね。……私も美希みたいに自分に素直になれればって、ときどき思うわ」
 目の前のアイドル候補生は、自嘲ぎみに笑う。
「そんな性格だったら今ごろ私もデビューしていて、律子と同じステージに立てたかもしれないのに」
 黙りこんだ私に対して珍しく饒舌になった彼女が視線を浮かせ、今日のライブを思い出すように言う。
「律子の歌、とても素敵だった。引退、お疲れさま」

 甘いものを口にして緊張が緩むと一日の疲れがどっと出て、眠気に襲われながら、私の思考は内側へと向かう。歓声につつまれて目いっぱい歌い、踊り、最後のライブは本当に楽しかったと噛みしめるように振り返っていると、もうあそこには戻れないのだと今さらながらに胸が締めつけられる。
「終わってしまったのね、私のアイドル人生も」
 私はだらしなくテーブルに寄りかかって、腕に頭を乗せる。また一つ、ぽーんとチャイムの音が鳴り、窓の外を車のヘッドライトが通りすぎていく。
「ねえ、伊織……」
 私は突っ伏したまま、ガラス窓に映った伊織に語りかける。
「私がプロデューサーになって、あなたと一緒に――」
 伊織の瞳が揺れた。
 目蓋を閉じると、ステージに投げかけられる歓声が聞こえてくる。けれど、その熱気に満ちたうねりを細い体で一身に受け止めるのは私ではなく、アイドルとなった伊織だ。彼女はやがて、私にも経験のないくらいたくさんの人を魅了するだろう。
 言い終える前に口を閉ざしてしまった私に応えて、伊織が言う。
「ええ、きっとよ。その日を待ってるわ」
 私は微睡んだ。観客席の呼び声はさらに熱気を増し、高い天井に反響して、言葉にならない残響を私は袖で聞く。スーツに身を包み、歌い終えた彼女の手を取ってその労苦をねぎらう、共に成功を喜ぶ私の姿がそこにはある。
 私は伊織と同じ夢を見る。これからも私はステージと、彼女と共にあるだろう。目を閉じてなおきらめくこの輝きが明日からも私を駆り立ててくれますようにと、満足感と期待にぼんやりとした頭で私は祈った。