ジェットガール

ときどき書きます

きざはし

 きみは街を歩いている。穏やかな天候に時おり吹く風は涼しく爽やかで、きみは、気持ちのいい午後になったと思う。友人同士と思しき集団だとか、デートを楽しむカップルだとか、街ゆく人とときにはすれ違い、ときには同じ流れに乗りながら、きみはずんずん歩く。それに合わせて、きみのトレードマークの、頭のふたつのリボンがリズムよく揺れる。きみは高校生で、普通の女の子だから、普通の休日を楽しんでいる。
 都会は好きだときみは思う。人手が賑やかで、お店もたくさんある。もちろん地元の家の近くだって桜が咲けばきれいだし、嫌いじゃないけれど、街にはいろんな人がいるから楽しいと、きみは思う。
 何より——きみは耳を澄ます——街には音楽があふれている。さまざまな店舗がスピーカーから投げかける音楽をきみは好ましく思う。ときどき知っている曲があると、一緒に口ずさんだりもする。きみは歌うことが大好きだ。恋していると言ってもいいくらいに。

 横断歩道で信号待ちをしているあいだ、きみはビルの側面に取り付けられた大きなビジョンに目を向ける。そこでは今、さまざまな売り出し中のバンドや歌手の新曲が宣伝されている。一つ一つは短い時間しか流れないが、知らない歌がまだまだたくさんあるのだと知ることは、いつでもきみを喜ばせる。
 そうして画面に現れる大勢のうちの一人に、ふと、きみは目を奪われる。ほとんど無名の、ひとりのアイドルに。如月千早という名の、おそらくきみと同年代らしき少女が歌っている映像を目の当たりにして、きみは息をのむ。じきに画面が切り替わって、ほかのバンドの演奏になっても、きみの頭の中にある彼女の印象は消えていない。あの細い身体から生まれているとは信じられないのびやかな声も、歌詞にのせた細やかな感情も、まだ強烈にきみの中に響いている。あんな風に歌えたら気持ちいいだろうな、ときみは思う。しかしその表情なのか、歌声なのかは分からないが、少女がどことなく悲しみをはらんでいることにもきみは気づいている。
 信号が青になる。きみはすぐに頭の中で午後の予定を組み直して、CDショップへと足を向ける。新譜のコーナーで、彼女の顔を探す。目当てのものを見つけ、手に取り、どうやらこれが彼女のデビュー作らしいと知る。もともと買うつもりだったいくつかのCDと一緒に支払いを済ませると、きみは店を出る。
 ファストフード店の一角に席を取り、きみは鞄からポータブルCDプレーヤーを取り出す。街でCDを買う帰りはいつも、電車に乗っているあいだ、それを自分の部屋で聞けるようになるのが待ち遠しく、もどかしくなってしまうことに気づいてからきみは、母親から譲り受けたこの持ち運びができるプレーヤーを愛用している。それ以来きみは電車に揺られながら新しい歌を聞く習慣をおぼえ、このことが好きになった。けれど今日は電車に乗るまでの我慢もできないなんて、と思ってきみは少し笑う。そんな歌に出会えたことを嬉しく思う。
 包装をとき、ディスクを取りだしてプレーヤーにセットし、イヤホンを耳に着ける。ボタンを操作して再生をはじめると、ディスクが回転するわずかな振動が伝わってくる。両耳を通して、頭の中へと音楽が拡がっていく。そうして、空間のすべてが新しい旋律に包まれる。この、わくわくするような感覚をきみは楽しむ。すぐに、あの街頭で出会った歌を聞いていることがわかる。静かな前奏に耳を傾けているところに彼女の声が滑りこんでくると、きみははっとする。やはりこの子は凄い、ときみは素直に思う。きみは彼女を最初に目にしたときの哀しげな印象を思い出し、彼女のことをもっと知りたいと思う。
 全部の曲を聞いてしまうとまた最初に戻って、二周目を聞きながら、店で一緒に買った音楽雑誌を手もとにひろげる。きみはお目当てのページを見つける。ごちゃごちゃとした情報の詰まった頁の小さな一画に、如月千早というアイドルのプロフィールが載っている。きみはそれを熱心に読む。そうして、彼女はきみと同学年なのだと知る。期待の歌姫。765プロ所属。短くまとめられた情報をきみは、暗記できそうなくらいに、繰り返し読む。その歌声、その名前をきみに刻みこむ。

 夕暮れの街を駅に向かって歩いていると、きみは灯りのともった小汚い雑居ビルに気づく。これまで何度も通りがかっていたのに知らなかったが、窓ガラスに貼ってあるガムテープは、拙い文字で「765」と読める。今やきみにはそれが如月千早の事務所なのだと分かる。きみは立ちどまり、心の中で急に存在感を持ちだしたそのビルの窓を見上げる。
 好奇心のなせるわざか、それとも偶然が後押ししたのか、意を決したきみは雑居ビルの階段を昇って、その事務所のドアの前に立つ。やはり綺麗とは言えないドアのすりガラスの向こうに蛍光灯の明かりが深く漂い、漏れ落ちた光が暗い廊下の足もとに投げかけられている。中からは若い女の子の声や、大人の男の人の声が混じりあって、何を言っているかはわからないけれど、楽しそうな、あたたかそうな雰囲気をきみは感じる。ドアのそばには「アイドル候補生募集中!」などとうたったチラシが置いてあって、きみはそれを一枚手に取り、読んでみる。何人かの所属アイドルの名前と顔写真が載っている中には、如月千早の名前もある。きみはチラシをきれいに折って鞄におさめると踵を返し、階段を降りてゆく。
 事務所の中にいた一人が人影に気づいてドアを開いてみるが、そこにきみの姿はなく、その人物が首をかしげているころには、もうきみは駅へと駆け出している。

 きみは家路の長い距離を電車に揺られながら、アイドルという存在について考えている。アイドルという言葉が頭の中を駆け巡っている。家に帰りつき、夕食を食べ、お風呂に入っていても、ベッドに横になりながら、今日の事務所のチラシを眺めているあいだも、ある一つの考えが頭を離れない。
 アイドルになるということ。もし同じ立場に立てたら、彼女と友達になれるだろうか。
 知らぬ間に寝ていたことに気づいたきみが時計を見ると、もう深夜といっていい時間だ。カーテンに手を伸ばして窓を開けると、夜の音が聞こえる。遠くでは月が、眠る家々を、きみを見下ろし、静かに照らしている。きみはもう一度彼女の歌声を聞いてから眠ることにする。そうして歌声に耳を傾けていると、彼女のことを、なぜだか身近な存在のように感じる。不思議だが、そのことこそがアイドルなのかもしれないときみは思う。手が届かないけれど、どこにいてもそばについている月のように。そう思って満足したきみは、今度こそ眠りにつく。

 朝になっても、きのうの考えはきみの頭に残りつづけている。それどころか、いいアイデアだという思いが強まっている。きみは自分の目標を見つけたと、子供のころからの夢を取り戻したと考える。そしてもちろん、あのチラシに電話番号が載っていたことに思いあたる。きみは数日のうちに、そこへと電話をかけている。

 一週間後、また街へと出たきみは、今度はまっすぐあの雑居ビルに向かっている。電話口で言われたとおり、バッグの中には緊張ぎみの表情を撮った写真とともに、履歴書がちゃんと入っている。ビルの窓は昼間に見あげてみると、先週見たときほど汚なくはないし、恐ろしくもない。きみは一段ずつ階段を昇ってゆく。一歩一歩、しっかりと、転ばないように。

 もうすぐ、きみはドアの前に立つ。深呼吸をして、きみはそのドアを開く。事務所にいた少女たちがきみに気づき、彼女たちのいくつもの瞳がきみをとらえる。その中には街頭のあの少女、如月千早もいるのだが、緊張のあまり今はそれには気づかない。きみは息を深く吸う。この日のことはその後もしばらくのあいだ事務所で語り草となり、話題にのぼるたびに如月千早がくすくすと笑い、きみが赤面することになるのだが、それは未来の話だから、きみはまだそのことを知らない。場違いの挨拶を、緊張に少し上ずった、けれどめいっぱいの元気な大きな声で、きみは事務所いっぱいに叫ぶ。
「はじめまして、天海春香です! 私、アイドルになりたいです!」