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ジェットガール

ときどき書きます

雨かぜの日

 昼ごろ外出したときにはすでに湿気まじりの生暖かい風が街路樹をざわざわと揺らしていた。見上げた空は薄暗く、凪ぐことなく流れる空気はいつもと違う雰囲気をはらんでいる。予報通り台風は今夜にもこの町を訪れるのだろう。天気というのはいつも勝手だと巴マミは思う。好きなだけ人を弄んだあげく、一日も経てば知らぬ顔をして過ぎ去っていくのだ。そんな嵐の予感に、人も車も、街ぜんたいが浮き足立っているのが分かる。
 今日は部屋に缶詰になるかもしれない、と思ったマミがスーパーであれもこれもとつい普段より多めの買い物をしている間に、ついに天気が崩れだした。店内から覗く外の景色に、雨の中を帰る羽目になる自分の姿を描いてマミは少しだけ憂鬱になるが、やがて覚悟を決める。スーパーの自動ドアが開くと、雨が道路を叩く音と、車が水を跳ねながら走る音だけがマミを迎えた。
 水滴を滴らせながら執拗にマミの足にまとわりつく傘や、いつもだったら買わないはずのお菓子だのコロッケだので膨らんだ荷物に内心悪態をつきつき袖を濡らしたマミがようやく家にたどり着いてみると、ドアの前に一人の少女が立っていた。赤い髪をポニーテールにしている、見知ったその顔は困ったような表情でマミを見ると、ずぶ濡れの体をわずかに震わせて照れるように笑う。
「……よう」
「佐倉さん」
 雨は激しく降っている。

 髪から服からぽたぽたと雫を垂らす佐倉杏子を脱衣所に押し込むと、マミはキッチンに立った。棚から薬缶を取りだしてコンロの上に置くと、シャワーの音が聞こえてくる。ティーポットと、カップのセットがしまってある戸棚を開く。いつもなら一人分しか使うことのないカップだけれど、今日はふたつばかり取り出して、丁寧にソーサーの上に並べる。
 風呂場の戸の通気口からは白い湯気がゆっくりと這い出している。マミは杏子が脱ぎ散らかした服を洗濯カゴに入れ、着替えが必要だわ、と思い至り、タンスから探しだしてきた部屋着を上下、戸の前に置きながら、曇りガラスに映る杏子の影に声をかける。
「お湯、調節できてる?」
「ああ、大丈夫」
「ここに着替えを置いておくから。服、全部洗っちゃうけど、いいでしょ」
「うん。……サンキュ」
 くぐもった返事は水音に消えてゆく。

 コンロのコックをひねると、ガスの青い炎が空気をはらみ、にぶい音を立てて燃え上がる。いつもの慣れた手順なのにどこか違って思えるのは、シャワーの音が背中から聞こえてくるからだろうか。
 マミはテレビの電源を入れてリモコンを操作するが、どの局も台風のことばかりだ。仕方がないので、ひま潰しに適当なチャンネルを流しっぱなしにして、見るともなく眺めている。台風の強さを述べあげるニュースキャスターの声をバックに、風に飛ばされないよう傘を抑えつけながら道をゆく人の姿が映る。
「はかない抵抗だな。傘なんか捨てちまえばいいのに」
 声に顔をあげると、マミの古い部屋着に身を包んだ杏子が立っていた。見るからにだぶだぶで、体格が違うのが露呈してしまっている。
「シャワー、ありがと。温まったよ」
「よかったわ。座ってていいわよ。今、紅茶を入れてあげるから」

 佐倉杏子はマミが淹れたミルクティーのマグカップを大事そうに両手で掴んで、冷まし冷まししながらゆっくりと口に含む。マミは隣に座ると、杏子に咎めるようなことを言う。
「ちょっと佐倉さん、髪が濡れたままじゃない」
「ああ……」
 杏子の生返事にため息をつくと、マミは床に放り投げられたバスタオルを杏子の頭に被せる。うわ、と小さく声をあげて首を曲げ、見あげる杏子に声をかける。
「ほら、カップを置いて。ちゃんと乾かしておかないと髪、傷むわよ」
 杏子は眠たげにううんと唸って、返事にならない返事をしている。それでマミはバスタオルごしに杏子の頭に手をのせると、髪をゴシゴシと拭きはじめた。無抵抗な頭は思いのほか不安定で、こわれもののようにマミは杏子に触れる。
「前が見えない」
「ちょっと我慢してなさい」
 杏子はマミの前にあぐらをかき、髪を拭かれるがままにしている。じっとしているのに飽きたのか、不意にああー、と声をあげ、自分の声を揺らして遊んでいるようなので、マミがふざけて乱暴に手を動かしてやると、杏子の声もわあわあと楽しげに上下する。

 ソファに体重をあずけたまま夕方どきのつまらないテレビ番組を並んで観ているうちに、杏子はうつらうつらし始めた。それに気づいたマミが、杏子を起こさないようにテレビの画面に目を向けつつ彼女の様子を窺っていると、ものの数分で規則的なリズムで息をしだして、ああ、眠ったんだとマミは思った。そうなってはじめて杏子のほうを向いて、彼女の横顔をまじまじと見る。その寝顔は、いつものあの刺々しい態度や戦いの中で見せる表情からは想像もつかないほど、穏やかな顔だ。水気を帯びたまつげは伏せられて、彼女たちを囲む厳しい現実を阻む鉄の護りとなっている。

 身体をこころもち丸めて眠る杏子にタオルケットをかけてやると、マミはそばに座ってその寝顔を見つめた。ガラス一枚へだてた外は依然として風雨はげしく、窓が時おりがたがたと音をたてる。テレビの音を消したので、部屋の中はずっと静寂を保っている。今だけは諍いも悩みもない、あどけない寝顔で、杏子は静かに寝息をたてている。
 戦いなんかなければ、彼女はずっとこのままでいられたのに。と、マミは思う。
 杏子は聖女だった。聖女の願いが反転し、その呪いを身にうけて、いまは魔法少女として苦しいときを生きている。翻って自分はどうなのだろうとマミは考えずにいられない。自分は……自分のいまの人生は何なのだろう。もともと誰かのために願ったのでもなかった。ただ自分が生きたいと願っただけの、おまけの人生。それだから却って正義の味方めいたことを標榜するのかもしれない。そうするしかもう、自分には生きる方法がないのかもしれない。

 杏子が身じろぎし、すこし眠りが浅くなっていると見てとって、マミはその身体に触れて、声をかける。
「佐倉さん」
「あ……マミ。寝てた」
「ええ。ちゃんと横になって寝なきゃだめよ」
 母親じみたことを言ったなと自分で思いながら、マミは寝ぼけ眼の杏子の手を引いて寝室まで連れてゆく。母親か。これは家族を失った私たちの、家族ごっこなのだろうか。ベッドに寝かせ、布団をかけてやっている間、杏子はすでに眠ってしまったかのように無言だったが、そのままマミがベッドのそばに座っていると、目蓋を閉じていてもそこにいるのが分かるのか、独り言を聞かせるように口を開く。
「……さっき、なんか夢みてた」
「どんな夢だった?」
「マミに後輩ができて、あんたを慕ってるっていうさ……。マミさんマミさんって言ってるんだよ、そいつらが」
 マミは泣きそうになる。そんな未来があり得るのだろうか。
「魔法少女が見た夢だ、正夢かもしんないよ」
「どうかしら、後輩だなんて。あなたはそんな風にはしてくれないのかしら?」
「あたしは一匹狼さ」
「雨宿り中の、ね」
 ふふん、と杏子は笑い、それから沈黙が続く。どうやら再びの眠りに落ちたらしいと、マミはしばらく経ってから気づいた。

 翌朝は台風一過でよく晴れた。服が乾ききるまでの間、マミは気乗りのしなそうな杏子を無理やりキッチンに立たせ、一緒に遅い朝食の準備をする。どうして杏子が自分のもとを訪れたのか昨日聞きそびれてしまったことに気づいて、マミはさりげなく水を向けてみたが、杏子は「近くに寄ったからさ」とはぐらかすだけだった。

 杏子は慣れた自分の服に着替えて立つと、さて、と言う。
「世話になったね。このお返しは次会うときに必ずするよ」
「お礼なんていらないわ。もっとゆっくりしていってもいいのよ」
「私も忙しいのさ」
 杏子は自分でもそう信じているのかいないのか、笑って、ドアに手をかける。その背中にマミは声をかけた。
「今度は晴れた日にいらっしゃい、狼さん」
 マミの言葉に杏子はきょとんとした顔をして振り返るが、すぐににやりと笑みを見せる。それきり一言も口にはしなくて、すぐに青空のもとへと去っていった。揺れるその後ろ髪を、マミはただ見送っていた。