ジェットガール

ときどき書きます

カーテンコール

 拍手の音は鳴り止まず、袖へと消えた私の背中に追いすがる。私は楽屋に戻る前に、もう一度だけ後ろをふり返った。暗いステージの上には誰もおらず、あるじを失った舞台装置とスモークの残滓だけがぼんやりと浮かび上がっている。私がそこに立つことはもうない。あの場所でスポットライトを浴びることは、もうない。私の、青春というにはあまりにも鮮やかで、あまりにもドロドロとした――しかし青春と呼ぶほかない、いびつな季節は終わりを告げた。秋月律子は今日、アイドルを引退したのだ。
 楽屋に戻ると感傷にひたる間もなく、同じ事務所の子たちがどやどやと入ってくる。口ぐちにねぎらいの言葉をかけてくれる彼女たちのその真ん中に立つのは星井美希、さすがに今日ばかりは神妙そうな顔をして抱える色とりどりの花束は、私に贈られるよりは彼女のそばにあるほうがずっとお似合いだろうと思う。美希は周囲に励まされるようにしてその花束を私に手渡すと、
「律子さん、お疲れさま。とっても綺麗だったの」
 と言い終わる前から涙声になる。
「あらあら、あんたが泣いてどうするのよ」
 軽口を叩くと美希は泣き笑いの表情になる。そうしてにわかに賑やかさを増した周囲に見守られる中、手のかかるこの後輩アイドルを慰めながら、私の視線はある姿を求めてさまよっていた。
 彼女――アイドル候補生の水瀬伊織は結局、その日の楽屋に姿を現さなかった。

 電車を降り改札を抜けると、その頃にはもう頭上を夏の夜空が青黒く覆っていた。私は終演後、駆け付けてくれた皆と一緒にプロデューサーの回してくれた車に乗って事務所へ帰り、ほかの子がお喋りに花を咲かせる間にこまごまとした事務手続きを済ませると、その日は長居もせずに事務所を去った。そのころにはもう元気になっていた美希などは、もうちょっといようよ、と言って引き留めたけど、それにはプロデューサーが口を挟んだ。
「甘えたい気持ちも分かるけどな、律子も全力を出し切って疲れてるだろ。明日からも会えるんだから、今日はもうゆっくり休ませてやってくれ」
 そう、アイドルは今日で引退したけれど、明日からも変わらず事務所には顔を出すのだ。私はこれから事務員としてここに所属することになっていた。もともと兼任でやっていたことだったし、この小さなプロダクションは常に人手不足なのだった。
 別れ際プロデューサーは握手を求め、私もその手を強く握り返した。生き急ぐように駆けていったアイドルの日々、私たちはよき仕事仲間だった。アイドルの身ながら、私は駆け出しの彼の仕事をフォローした。律子がプロデューサーになった方がいいんじゃないのか、なんて愚痴るように言われたことも一度ならずあったけれど、私の方でもこの業界の裏表について少なくないことを彼から学んでいた。
 自分がステージに立つことはもうなくても、後輩のアイドルや伊織たち候補生、これから華やかな世界で輝くことになる彼女たちを背中から支えることができるのだと考えると、私の胸は弾んだ。引退を決めてからこちら、私はこの世界のことを気に入っているのだと気づかされるばかりだった。

 駅を出たところで、一人の少女の姿があった。暗い道路を背にして、駅舎の投げかける冷たい光に照らされている。仁王立ちした彼女は花束を片手に、行き来する人たちの流れに挑戦するかのように口をぎゅっと結んでいる。すらっとして落ちついた服装とは不釣り合いな少女じみた表情を目にして、私は微笑んだ。景色を見るともなしに見る視線、体重のかけ方、見慣れたその立ち姿は、伊織だった。顔を覗きこむようにして近づくと、彼女もこちらに気付いた。
「律子」
「どうしたの伊織、こんな所で」
「偶然ね、ちょっと通りかかったの」
 伊織が口早に、まるで用意していたみたいな台詞を言う。さっきのあなたの様子じゃとてもそうは見えなかったけれど。この子をアイドルに仕立てるにはまず演技レッスンから必要ね……私はそんな内心を口には出さず、頬を紅くする彼女に、せっかくだからどこか落ち着ける場所にでも行こうかと提案する。彼女は黙って頷いた。
 夜の駅前は仕事を終えた大人たちがとぼとぼと行き交い、私たちはなんとなく無言で歩いた。生暖かい風が私たちの腕を撫で、街路樹がさわさわと音を立てる。駅から続く道沿いのファミリーレストランが見えてきたところで、ようやく私が口を開いた。
「どのくらい待ってたの」
「そんなに。三十分くらいよ」
 偶然ね、と言ったのはどこへやら、伊織は正直に告白する。こうやって二人で歩いている今となってはどうせお互い気にしなかったから、いちいち問い詰めるようなことでもなかった。
「……花束、渡そうと思って」
「なあに、嬉しいわね。楽屋に持って来てくれてもよかったのに」
「美希が持っていた花束、立派だった」
 伊織は並んだまま顔も見ずに、独り言みたいに呟く。
「みんなが贈ってくれた分ね。さすがに家には持って帰れなくて、事務所に飾ってあるわ」
 そう言って肩をすくめると、伊織が立ち止まったのに気づき、振り返る。伊織は私を見つめていた。店から客が出てきたのか、後ろから店内のがやがやとした音が私の耳に届き、すぐに消えた。
「律子。これ」
 ずっと握りしめていた小さな薔薇の花束をまっすぐ私に突きつける。決闘でも申し込んでるみたいね、と苦笑しながら、私はそれを受け取った。
「ありがとう。じゃあこれは、自分の部屋に飾ろうかな」
「……え、是非そうしなさい」
 ようやく伊織は笑った。

 私たちは窓際のテーブルに向かいあって座り、それぞれパフェを食べた。語らう人の声ごえで雑然とする店内に、店員を呼び出す間の抜けたチャイムの音が聞こえてきて、それが何となく私を安心させる。
 伊織が顔を見せなかった楽屋での話を、私は聞かせてやっていた。
「美希がね、楽屋で私に花束を渡してくれたんだけど、突然泣きだしちゃって」
 伊織はパフェを掬っていた手を止め、何かを考えるように目を臥せる。
「あの子はあんたに憧れていたものね。……私も美希みたいに自分に素直になれればって、ときどき思うわ」
 目の前のアイドル候補生は、自嘲ぎみに笑う。
「そんな性格だったら今ごろ私もデビューしていて、律子と同じステージに立てたかもしれないのに」
 黙りこんだ私に対して珍しく饒舌になった彼女が視線を浮かせ、今日のライブを思い出すように言う。
「律子の歌、とても素敵だった。引退、お疲れさま」

 甘いものを口にして緊張が緩むと一日の疲れがどっと出て、眠気に襲われながら、私の思考は内側へと向かう。歓声につつまれて目いっぱい歌い、踊り、最後のライブは本当に楽しかったと噛みしめるように振り返っていると、もうあそこには戻れないのだと今さらながらに胸が締めつけられる。
「終わってしまったのね、私のアイドル人生も」
 私はだらしなくテーブルに寄りかかって、腕に頭を乗せる。また一つ、ぽーんとチャイムの音が鳴り、窓の外を車のヘッドライトが通りすぎていく。
「ねえ、伊織……」
 私は突っ伏したまま、ガラス窓に映った伊織に語りかける。
「私がプロデューサーになって、あなたと一緒に――」
 伊織の瞳が揺れた。
 目蓋を閉じると、ステージに投げかけられる歓声が聞こえてくる。けれど、その熱気に満ちたうねりを細い体で一身に受け止めるのは私ではなく、アイドルとなった伊織だ。彼女はやがて、私にも経験のないくらいたくさんの人を魅了するだろう。
 言い終える前に口を閉ざしてしまった私に応えて、伊織が言う。
「ええ、きっとよ。その日を待ってるわ」
 私は微睡んだ。観客席の呼び声はさらに熱気を増し、高い天井に反響して、言葉にならない残響を私は袖で聞く。スーツに身を包み、歌い終えた彼女の手を取ってその労苦をねぎらう、共に成功を喜ぶ私の姿がそこにはある。
 私は伊織と同じ夢を見る。これからも私はステージと、彼女と共にあるだろう。目を閉じてなおきらめくこの輝きが明日からも私を駆り立ててくれますようにと、満足感と期待にぼんやりとした頭で私は祈った。

マイ・ガール

「ほら、できたわよ」
 肩を軽く叩いて今日のお姫様を鏡の前に立たせると、そこに映る自分の姿を目にして、真が小さく息を呑む。
「わあ……本当に、こんな服着ちゃっていいのかな、ボク?」
 体を左右に捻って自分の姿を確認しながらはしゃぐ様子に、そばに立つ伊織は満足げな笑みを浮かべ、胸を反らしていつもの偉そうな口調で言う。
「当然じゃない、この私が見立ててあげたんだもの。ピンクでフリフリの服なんかより、こういうもののほうが似合ってるわ」
「う、うん。ありがとう」
 鏡に映る真は服装がそうさせるのか、いつもより幾分しおらしい。伊織は真の全身を上から下まで眺めてみる。肩口から鎖骨を見せる薄いブラウスに、淡い色の、膝上丈のスカート。こうして見ると……うん、申し分なく、よそ行きの格好をした、ひとりの可愛い女の子だ。
 水瀬家の大きな窓から差す夏の日差しは二人のいる部屋の一角を眩しく切り取り、はじけた光が、明るい服に身を包んだ真の姿をなお鮮かに彩っている。この休日、買い物に付き合うため家を訪れた真を伊織は部屋にあげて、強引に、彼女のために用意していた服へ着替えさせたのだ。自分で言うのもなんだけど、まあなかなか似合っているじゃないの、と伊織は内心満足する。
「不安そうな顔をしないの、可愛いわよ」
「え、そう?」
 鏡の中の真がぱっと顔を輝かせるので伊織はつい意地悪な気持ちになって、私の次にね、とつけ加えると、真は苦笑した。
 しばらくの間鏡に向かってためつすがめつし満足したのか、振り返って今度は伊織とじかに向き合った真は、伊織を一瞥して、何か言いたげな表情だ。それもそのはず、と伊織は考える。なにせ今日の伊織は、いつものかわいらしい服装とまったく逆行しているのだ。真と並んで立っていると、伊織は長い髪をアップにまとめてつばのついた帽子に納め、七分丈のパンツに半袖のパーカーという、これじゃあまるで、
「男の子みたいだって、思ってるんでしょ」
 鋭く言うと真は咄嗟に応えられずに口ごもり、図星ね、と伊織は心の中で思う。根が正直なのか考えていることをそうやってすぐ表情に出してしまう真に、伊織はウィンクして言う。
「あら、変な顔しないでよ。伊織ちゃんはボーイッシュな服装だって、似合うでしょ?」
 真剣な顔でうんうん、と頷く真を見て、伊織は微笑んだ。似合っていると言ってもらえたからではない。こうやっていつもどんなことでも、他人に対して真摯で、正直で、真のそういうまっすぐな所が、伊織は気に入っているのだった。
 それから、と伊織は言う。
「今日はその格好のまま出かけるわよ」
「ええっ!」
 突然の命令に目を丸くする真に、何のために着替えさせたと思っているの、と伊織は続ける。
「似合ってるんだから問題ないでしょ。今日はね、私、真をとことん女の子扱いするって決めたの」
 それは以前からひとりで考えていたことだった。休日に二人で出歩いているといつも、伊織と並んだ真は男のように扱われ、その度に彼女は明るく振る舞うけれど、後になってふっと悲しそうな顔をするのを、伊織は口にこそしなかったもののずっと気にかけていた。それでここのところは、事務所にいる時にはさりげなく真の身体のサイズを調べ、オフになると真の顔やスタイルに似合う服を選別する日々を送り、ようやく満足できるプランができて、伊織は何気ない風を裝って真を買い物に誘ったのだ。
「これは私のわがままだから」
 真がきょとんとしているので、伊織はもう一押ししてやる。そう言ってみればわがままなのは確かだったが、こうやって強引にするくらいでないと快活なこの少女は変なところで臆病になってしまうことも伊織は知っていた。だからこれ以上聞かないでよね、と心の中でつぶやいて顔をそらす。この辺の機微はお互い知れたもので、真は笑って言う。
「へへ、伊織の言うことじゃあ仕方ないね」
 その言い方がいやにきまっていて、また真は王子様になっているわと伊織は思う。けれど、
「……ん」
 そう言って腕を伸ばして、細長い指をわずかに開いた掌を見せるその仕草にも、少しうつむいた表情にも、いま一瞬見せた凛々しさなんてものは欠片もなくて、伊織の前で控えめに手を差し出すのは、非の打ちどころもなく、少女だった。
 わざと眉をひそめて、伊織は尋ねる。
「何よこの手は」
「ええっ、そんなことも知らないの? 女の子はデートをリードしてもらう役なんだよ」
 大げさに驚いてみせた真は、手を差し出したままニコニコと伊織の手を待っている。そうこなくっちゃ。
「まったく、いい性格してるわよ!」
 そう言いながら、伊織はしっかりと真の手を取った。

 ドアを開けると、眩しい日差しと熱気がふたりを包んだ。両側を深緑の木々とセミの鳴き声に挟まれた細い路地を抜けて大通りに出ると、駅へと続くいつもの道を歩く。伊織はできるだけさりげなく並んだつもりだったけれど、真は目ざとく気づき、歩きながら、
「ねえ、もしかして伊織、わざと車道側に立ってくれてる?」
 と訊く。考えを見透かされたようでばつが悪そうに頷くと真は目を輝かせて、感激だよ、なんて言っているので、それほどのことだったのかなと伊織は少し不思議に思った。だけどそうやって歩いてみると、伊織のすぐ脇を車が流れていく今日の景色にはどことなく違和感があって、それで気がついた。
「あんた、今までずっと車道側に立ってくれていたのね……」
 さあどうかな、とはぐらかす真に、伊織は申し訳ないと思う。真と出歩くときの伊織はずっとわがままを言い通しで、それに文句も言わずニコニコと応えてくれる彼女に、伊織はずっと甘えていた。今日伊織がこんなことを言い出さなければ、彼女は何も言わずに車道側を歩き続けただろうか。
 考えこんでいると真が、伊織は優しいねと笑うので、それはこっちの台詞だわ、と思いながら、口には出せずに伊織は髪を揺すった。

 真が特に行きたい場所もないのなら、少し遠出をして港のある街に行こうと伊織は言った。真は近くの映画館でもいいよと言ったが、せっかくの格好をした真を何時間も暗いところに閉じこめるなんて手はないと伊織は却下し、真も特に反対はしなかった。考えてみればいつも事務所や互いの家に近い所を訪ねるばかりだったので、休日に遠出をするのは初めてのことだった。駅までの二人分の切符を買って、伊織は真に手渡した。
 電車の中は空調が効いていて、短かい道程で日差しに苛まれた肌がすっと冷えて心地いい。ドアに体を寄りかからせて伊織はほっと息をつくと、隣に立つ真に声をかけた。
「どうしたの、そわそわしちゃって」
「なんだかこのスカート、短くてさ……」
「ステージ衣装だって、そのくらいのがあるじゃない」
「オフで着ると緊張しちゃうんだよ!」
 真が世界の一大事みたいな表情で言うので、伊織は可笑しいと思う。スースーするよ、と言って窓の向こうを流れるビルを眺めている真の横顔は少し落ち着かなさげで、またからかいたくなる。
「初めてスカート穿いた男の子みたいになってるわよ」
 なんてことを言うんだよ、と不満顔で振り向いた真に、伊織は言い含めるように語りかける。
「今日街を歩けばボンクラ男どもが真、あんたを見て振り返るのよ。もっと堂々としてなさい」
「そうなの? なんだか緊張してきたよ」
 少し声を高くして言う真に、冗談よ、と伊織は顔も見ずに言う。見なくても、真が落胆する様子が伝わってくる。ころころと表情を変える真が今日は一段と可愛いくて、伊織はつい余計なことまで言ってしまう。
「だからって、その辺の男にほいほいついて行っちゃだめよ!」
 そう言ったとき、電車がカーブに差し掛かった。車内が傾いて、周囲の乗客も体を揺らす。バランスを崩した伊織がとっさに伸ばした腕を、真はしっかりと掴んで支えて、
「はいはい、伊織お嬢さま」
 笑いながら答える声が、伊織の頬に血を上らせる。これじゃダメだわ、いつも通りの王子様の真と、いつも通りのわがままな伊織になってしまっている。
 車内アナウンスが流れ、あと数駅で目的の駅に着くことを告げた。伊織は真に訊いてみる。
「ねえ、今日、何かしてほしいことある? 何でもいいわよ」
「んー、ボクは伊織が楽しんでくれればいいけど」
「もう、そういうこと言わないでって言ってるの。何かあるでしょ」
 きっとあるはずなのだ、真がずっと押し殺してきた夢――とまでは言わなくとも、ベッドで目を瞑ったときに夢想するような、自分でも気づいていないような願いが。女の子として扱われたいというひとつの大きな望みが果たされたいまがチャンスなのだと、伊織は勢い込んで、懇願というよりは強要といった口調でなおも尋ねると真は困ったような顔で、考えておくよ、と笑った。

 真の願いを叶えるチャンスは、駅から続く繁華街を歩いている時に訪れた。通りかかったアクセサリーショップに目を留めた真が立ち止まり、気づいて振り返った伊織に声をかける。
「ねえ伊織、さっき言ってた『してほしいこと』だけど」
「なあに、何か思いついた?」
「うん、指輪。指輪が欲しいな、ボク。ペアリングでさ」
 ペアリングという言葉を耳にしたところで、はあっ、と伊織がすっ頓狂な声をあげる。目の前の少女は悪戯を成功させた子供みたいににやにやと笑っている。わざと無茶を言っているのだと伊織は思って、売り言葉に買い言葉で、いいわ、ついて来なさいと言い、逆に戸惑う真を置いて店へと入った。話を聞いた店員は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに営業スマイルに戻って指輪選びを手伝ってくれた。真は一度だけ、本当にいいの、と訊いたけれど、真顔で頷く伊織を見るとどこか嬉しそうに口を閉ざした。
 二人分の指輪を受け取ると、伊織はその場では渡さずに、真がついて来るのにまかせてすたすた歩いていく。伊織はこうなったらとことんという気持ちで、海の見える公園のベンチに真を座らせると、その片手を取った。先ほどの店で買った指輪を取り出して手にゆっくりと嵌めてやるうちに、お互い照れていることに気づいて、目を合わせることができない。その間ずっと無言だった真は、やがて指を飾る安っぽい指輪を夕陽にかざすと嬉しそうに笑って、ありがとう、大切にするよと言った。
 真の服を取りに一度家に寄ってから、彼女を駅まで送った伊織は別れ際、「事務所に指輪をつけてこないこと」と念を押した。大丈夫だよ、今日はありがとうと言って改札越しに真は手を振る。そう、じゃあまた明日、おやすみと答えて振り返す伊織の手にも蛍光灯に照らされて、同じ指輪が光っていた。
 それからひとり部屋に戻った伊織は、指輪を外して、じっと考えごとをするようにその光沢を見つめていた。

 翌日。いつもより少しだけ早く事務所に来て暇を潰していた伊織は、おはよう、という元気な声に顔を上げ、やってきた真の手にすばやく目を走らせる。その華奢な指たちには曇りも装飾もなく、言いつけは守ってるわね、と伊織は安堵の息をつく。と、春香が真に話しかける声が聞こえてくる。
「あれー、真、その指輪どうしたの?」
 指輪なんかしてなかったはずだわ、と伊織がもう一度遠目に確認すると、真の首から、チェーンで指輪が下げられている。あたふたと弁明をしようとする真を春香がからかっている。その賑やかな様子に、事務所にいた他の女の子たちも寄ってきて、じきに真は質問責めになるだろう。伊織はまったく、と呟きながら、小さく額を抑える。屈んで開いた服の隙間からは、同じようにして首にかけられた指輪が覗いていた。

おなじみの夜

「それではさやかの失恋を記念しまして、乾杯! ほら、さやかも、マミさんも」
 佐倉さんが高らかにそう告げ、手にしたジョッキを掲げる。隣に座った美樹さんにほらほらと促し、美樹さんはというと仕方なくつき合ってやるという風である。一瞬目が合ったとき困ったように微笑んだ彼女は、青みがかかった髪を肩まで伸ばして、以前会ったときよりもさらに大人びて見えた。
「大きな声出さないでよね。恥ずかしいから」
 そう言いながらも美樹さんはグラスを持った手を伸べて、私もそれに合わせ、三人の乾杯にカチリと音がなる。
 日も暮れてようやく一週間が終わり賑わいだした店のお座敷で、先ほどの佐倉さんのかけ声が集めた好奇の目を体に感じて、私はひとり固まっていた。周囲の視線は私の向かいにいるふたりの視界には入らないから、平気な顔でメニュー片手に話を続けている。
「何言ってんださやか、いつもの事じゃないか」
「いつもの事ってどういうことよ」
「さやかの失恋に乾杯し続けて、もう何度目かも覚えてない」
「こら、そんなに多くはないわよ!」
 そう怒ったふりをしてみせて、美樹さんがグラスを傾ける。そうしているうちに周囲の視線も散り、私も息を一つ吐いて、喉に梅酒を流しこんだ。
 佐倉さんが言っているのはつまり、美樹さんが失恋をするたびに三人集まって飲んだり食べたりをする、この会のことだ。彼女の傷心を聞きつけるや佐倉さんは私にメールを送ってよこし、知らないうちに話を進めてくれるので、気づけばこうして美味しいものを囲んで乾杯しているというわけだ。もちろん美樹さんの言った通り頻繁にあることではないけれど、何度か繰り返されてきたことも事実だ。美樹さんも本当に嫌なら来ないことだってできるのだから、少しは彼女の気を紛らわす役に立っているのだろうと勝手に思う。

 それでも、最初の時はこうではなかった。
 もう何年も昔、私たちがまだ中学生だった頃、美樹さんが幼なじみの男の子に対して手痛く失恋したという次の日、やはり佐倉さんの呼びかけで私たちは夕方のファーストフード店に集った。
 その日はさすがに佐倉さんも心配そうな様子で美樹さんを迎え、
「……さやか」
「杏子、マミさん。やあ、ひどい顔でしょ」
 美樹さんはろくに眠れてもいない様子で、わたしたちに向かって笑った。窓際の席、ガラス張りの一面に並んで座ると、傾いた日が街のビルの半分を橙に照らし、もう半分を灰色にして、街ゆく人に陰気な影を落としている。わたしたち二人に挟まれた美樹さんは、静かにハンバーガーを齧り、佐倉さんが無言のまま心配そうに彼女を窺う様子がガラスに映った。
 そうして私たちの中の誰も話しだせないうちにプラスチックのお盆に残ったポテトはすっかり冷めてしまい、手を伸ばすペースもほとんどゼロになったころ、ようやく美樹さんが口を開いた。恭介はね、と彼女は失恋の彼のことをそう呼んで、彼が幼なじみだという話や美樹さんにかわり彼を射止めたという親友の女の子の話を、ときどき口をつぐみながら、絞り出すように話す。
 美樹さんの語る話は、私の知らない彼女の物語だった。それに耳を傾けるあいだ、ほんの一面しか知らなかった私の中の美樹さんがその泣き顔とともに、存在感を増していった。

 それから、また会う機会も次第に少なくなっていた頃、美樹さんが二度目の失恋をしたという話を聞きつけたとき、正直に言えば、佐倉さんからの連絡を期待していた気持ちがあったことは否定できない。あの、夕方のファーストフード店の出来事は、以来常に頭の片隅に残っていたのだ。泣き疲れた顔で諦めきれない恋を語る美樹さんの横顔は、あの後もたびたび私の脳裏に蘇っていた。
 はたして佐倉さんは私たちをカラオケに呼びつけ、それは前回より多少なりとも賑やかな時間となった。美樹さんも佐倉さんも、明るい曲調の歌ばかりを、力のかぎりに歌った。私が歌うあいだ、並んで座る二人で顔を寄せ、はやし立てる佐倉さんに美樹さんが今度の相手の男の子の悪口を言ってみせるのを見て、最初の失恋の痛みを引きずる彼女の内心を私は思った。

 突然視界に鍋が現れて、追憶が中断された。注文していたメニューがやってきたのだ。鍋越しに見える美樹さんは鍋から溢れんばかりに山盛りの食材に目を輝かせ、その顔にはふさいだり落ち込んでいる様子はなくて、けれど幾つもの経験が彼女の感じ方を数年前のそれから変化させてしまったとしても、それで彼女の純粋さが損なわれるわけでは決してない。
 目の前の二人の飲み物はすでにほとんど空になって、話はまだ途切れることもなく続いているようだった。
 美樹さんが意地悪そうな顔をして佐倉さんに言う。
「そういうあんただって、いつ浮いた話が出るか分からないわよ。茶化す余裕もなくなるんだから」
「あたしたちはさやか一筋だからな、心配してもらわなくても大丈夫だよ」
 片耳でその会話を聞きながら、近くの店員さんに飲み物のお代わりを注文しようと考えていると突然、佐倉さんが私に水を向ける。
「なあ、マミさん」
 えっ、と聞き返して顔を向けると、美樹さんと佐倉さんがこちらを見ている。佐倉さんは私が美樹さん一筋だといって、呼んだのだ。私は急速に頭をはたらかせる。あわてて図星と取られるような態度をとってはまずいし、はっきり否定して本気にとられても悲しい。
 私はすぐに答えを決め、佐倉さんの冗談めいた言葉に少しだけ心を込めて、微笑む。
「ええ、そうよ。私、美樹さん一筋だもの」
 本人を目の前にそう口に出してみるといっそ清々しく、自分の口をついて出た言葉に私自身がはっとさせられる。
 どぎまぎするのを隠そうと努める私に、あはは、と美樹さんは明るく笑って、
「マミさんみたいに綺麗な人なら、男に困ったりしないでしょ。あたしが男だったら絶対マミさんのこと好きになるよ」
 その言葉に悲しくも一瞬心がときめき、すぐに、だめだめこれはお世辞、社交辞令だからと言い聞かせ、けれど余韻がじんじんと胸を満たす。彼女の顔を直視できずテーブルに目をやると、まだお代わりを頼んでいなかったことに気がつく。
 私があわてて店員さんを呼び飲み物の注文をすると、また美樹さんは佐倉さんと他愛もない話をはじめ、時おり私も混じって、暖かい鍋とお酒に、三人して酔っていった。

 店を出ると、まだ涼しげな夜の道にはちらほらと人の姿が見える。私と美樹さんは隣街に帰る佐倉さんを駅まで送り、車通りもないまっすぐな道路を、ゆったり並んで歩く。それから交差点に差しかかるまでの間が、短いふたりきりの時間だ。
 私は隣を歩く美樹さんに語りかける。
「佐倉さんといると、楽しいわね」
「そうですね。あいつは話しやすいから」
 美樹さんが頷く。きのう彼女からメールが来てね、と他愛もない話を私は続け、佐倉さんがいかに美樹さんのことを心配しているかについてぺらぺらと喋りながら、内心ため息をつく。せっかく二人きりなのに、まだ佐倉さんの話をしているなんて。私はいつもこうやって人に花を持たせてばかりいる。でもこの件に限って言えば、嘘やお世辞を言っているわけでもなかった。私たちが今夜集まったのは、すべて彼女のお陰なのだ。それにいつも、美樹さんの話し相手になるのは佐倉さんで、私はそれを、ニコニコ笑って聞いているだけ。美樹さんが誰に会いに来ているのかは一目瞭然というわけだ。
 そんなことをもんもんと考えている私に、でも、と美樹さんが言った。
「マミさんがいてくれるのも嬉しいよ、あたし」
 道沿いのコンビニエンスストアの明かりが照らしだす美樹さんの横顔を、私はまじまじと見つめてしまう。美樹さんが視線に気付いて私と目を合わせ、照れたように笑ったときの彼女の顔を、私はまた幾度となく思い返すのだろう。
 ありがとう、と応えるタイミングを失って、無言になってしまった。頭の中で話題を探しているうちに最後の交差点に辿りつき、二人立ちどまる。別れの前の最後のタイミングを見計らって、私は声をかける。
「またごはん、食べに行きましょう」
「それってまた失恋しろってことですか? そう簡単にはいきませんよ」
 美樹さんがにやにやとした顔で言うのであわてて否定すると、彼女は冗談ですよ、また行きましょうと笑って手を振った。
 背を向けた美樹さんが暗く、見えなくなるまで見送り、私も帰ろうと考える。街の灯りが静かに行く手を照らすのを眺めると、うっすらとした満足感が私を包んでいる。今はまだ、とひとり呟いて私はこの夜に歩きだし、自分自身に心の中で語りかける。数年前から続く道はまだ途切れてはいない。今はまだ秘していよう、私の、ひそやかな恋。